高木秋子 木綿地風通織着物「月待ちの浜」

木綿地風通織着物「月待ちの浜」1987年

木綿地風通織着物「月待ちの浜」1987年(第34回日本伝統工芸展・日本工芸会会長賞受賞)

幾何学柄の一枚の着物を前にして、ひとはそこになにを見るのでしょうか。

濃淡2種類の藍をベースにして、白と黄色の線が縦横に走っています。よく見れば白の横線は直線ではなく鎖状。着物の静かな印象の中にわずかな動きをもたらしています。じっと見ていると、白の線の動きに連なって全体の格子柄もゆるやかに揺れていくよう。大胆な絵柄が描かれている訳ではなく経糸(たていと)と緯糸(よこいと)とで織られた端正な格子柄であればこそ、その空間はまるで揺りかごのようにやさしく揺れ、水面のようにしずかに震えます。

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「月待ちの浜」とは、なんと美しいタイトルでしょう。ここにあるのは着物のかたちをした布ですが、そこにはもっと大きな風景が広がります。月がゆっくりと昇りはじめた海岸に立ち、肌に触れてくる風までもが捉えられているようです。

戦後、染織の道に踏み出した高木秋子(1917-2008)は、紬に絣、浮織に両緞織、しじら織と様々な技法を試みました。持ち前のバイタリティと勤勉さで西部工芸展や日本伝統工芸染織展などの公募展でも入選を重ねるようになった頃、60歳を超えて高木は、その後の創作活動を決定づける体験をします。それがスーピマ綿という極細超長綿との出会いでした。絹にも劣らぬしなやかさと艶やかさを持ちながら、布になった時に快適で丈夫なこの糸は、自分だけの表現を志しながらも同時に「人間らしく生きるためには、自分で食べるもの、着るものなどの一番基本的なモノづくりができなければ駄目だ」と着物の実用性にもこだわった高木にとって、うってつけの素材でありました。

そのスーピマ綿の特徴を最大限に活かすことができる織はなにかと試行錯誤を繰り返し、見出されたのが風通織です。風通織とは二重織の一種で、表裏に異色の糸を用いて平織の二重組織とし、文様の部分で表裏の糸が入れ替わるように織ります。ですから裏表の糸が交差するところ以外は袋状となり、つまりそこに「風」が「通る」。糸が細くても厚地になるため通常は絹糸で織られ、しかし空気を含むために暖かく、かつては福岡にも冬の防寒着として木綿で織っていたところもあったとか。幼少より福岡に暮らす高木はその風土とのつながりを大切にしながらも、自分流の風通織の確立を目指しました。

木綿地片経浮織着尺「清流」1993年頃

木綿地片経浮織着尺「清流」1993年頃

木綿地風通織着尺「ちゅら、うりずん -若夏讃歌」1994年

木綿地風通織着尺「ちゅら、うりずん -若夏讃歌」1994年

木綿地風通織着尺「藁のカジマヤー」1998年

木綿地風通織着尺「藁のカジマヤー」1998年

藍色と緑色を中心にしてごく限られた色数で織られる高木の木綿地風通織は、だからこそ着る人を選ばない懐の深いデザインを実現します。と同時にその着物に人が袖を通した時、裏地の色が微妙に照り映えて、独特のニュアンスと空間が生まれる豊かな美しさを醸しだすのです。

木綿地風通織着物「菜の花畑」2001年

木綿地風通織着物「菜の花畑」2001年

木綿地風通織着物「花影」2002年

木綿地風通織着物「花影」2002年

「月待ちの浜」について高木はこう語っています。「台風一過。竹富島の海から大きな月がゆらりと立ち昇る。べた凪の海に僅かな白い波頭が。荘厳としか云い様の無い風景。」 高木にとって織物は抽象画。はじめに自分自身が目にし、感応した自然や風景があり、想いがあります。それを織物へと託すためにデザインを考え抜き(時には「脂汗をかきながら6,7年間頭の中で悩み、温め」ると言います)、草木染によって自然の色を糸に映し、無心で機に向かうのです。

見る/着る人をやさしく包み込む高木の清らかで美しい着物は、自然への恭敬と表現への真摯な思いによって紡ぎ出された賜物として、私たちの前に広がっています。(竹口)