2015年8月27日
「あること」が終わって1ヶ月が経ちました。2週間という短い会期でしたがいろいろ考えることのできた展覧会でした。観に来てくださった方も、観に来たかったけど来れなかった方も、「そんな展覧会あるんだったら観に行きたかった!」と後から気付いてくださった方も、みなさんありがとうございました。
せっかくなので振り返ってみたいと思います。出品作家3人(坂井存、坂崎隆一、三輪恭子)それぞれについてのテキストをアップしていきます。まずは坂井存さんについてのテキスト。坂崎さんと三輪さんについてのテキストは、さていつになるやら…。
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空っぽの身体と絶望のなかの希望 ― 坂井存の「あること」
竹口浩司
原発作業員に扮した坂井存(1948~ )がパフォーマンスを開始する直前にわたしに手渡したA4の紙には井上ひさしらがつくった《ひょっこりひょうたん島》の主題歌の歌詞が印刷されていた。パフォーマンスの締めくくりとしてこの歌を参加者全員で合唱したいというのだ。本人不在のまま始まったパフォーマンスの冒頭では坂井が各地の原発を訪ね歩いた記録映像とともに忌野清志郎の《原発音頭》がけたたましく流され、映像が一巡する約10分間の後に坂井と坂井の友人でもある彫刻家 新庄良博の「作業」が物々しく、しかし静かに動きだした。「スッとやって、パッと終わるのがいい、まるで作業のように」と坂井が言ったように、参加者の多くが坂井たちが登場したことすらも気付かなかったし、本展の出品作でもあった約2m四方の木製の箱(その側面には消費者金融のけばけばしいアクリル看板がベタベタと貼られていた)をグルグルと切り回し(もちろんキャスター付きではある)、その傍らに置かれていたもう一つの小箱の鍵を開けてバケツ二杯を取り出し、その中からバラバラになったマネキンの手を床に無造作に撒き散らしながら自分たちの怒りを叫ぶという一連のパフォーマンスをものの数分で終わらせた。その場で坂井から叫ぶように促された新庄が腹から絞り出した「俺たちの畑を返せ!」という声にも胸を打たれ、終了後「かっこよかったから、もうちょっと長くやればよかったのに」とわたしが勝手な感想を漏らしても坂井は「いや、こういうのは短い方がいいんだよ」と迷いなく潔かった。「作業」が「物語」をまとってしまう前に、「目の前の現実」が「特殊な表現/特別な芸術」へと昇華してしまう前に幕を引く。
絶望的な現実を示しながら、坂井はそれでも最後には希望をうたおうとする(以下この段落内の「 」は《ひょっこりひょうたん島》主題歌より引用)。「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」と手を招く。「丸い地球の水平線に何かがきっと待っている」その「何か」はいつも楽しいこと、うれしいことばかりではなく、歌詞にあるように苦しいこと、悲しいこともあるだろうけれど、だからこそ明るく「進め」と唱えるそういう希望の使い方にこそ、これからの日々を生きぬくための術が隠されていると、わたしはそう思っている。そしてなにより、ひとりのぼくではなく「ぼくら」となって楽しさも悲しみも分有することができれば、すべての人にとって生きやすい世の中になるのではないかと考えてもいる。
坂井はながらく《重い荷物》を背負いつづけてきた。ゴムチューブでできた巨大なクワガタ虫のようなそれは、真っ黒でグロテスクに見えるが見ようによっては愛らしく、フェティッシュでもある。重さは約20kg。ただ背負うだけならそう苦にもならないが、それを背負って時には向い風を受けながら歩きつづけるとなると事情も変わる。
福岡に暮らす人であれば坂井が久留米在住だと聞けばピンと来るところもあるだろう。かつて久留米の繁栄をもたらしたゴム産業の嫡子(あるいは奇形児?)とでも呼べそうな象徴を坂井は背負っている。スーツにネクタイ姿でゴムチューブのオブジェを背負いまちを歩く姿は奇妙で滑稽だが、それを中年サラリーマンの悲哀や社会に対する怒りの表現と見ることもできようし、あるいはお遍路よろしく苦行に身を投じ苦難からの解脱を図っているのだと見ることもできようか(お遍路の巡礼者は「同行二人」と書かれた自らが弘法太子とともにあることを刻んだ笠を手にするが、坂井は文字通り「同行二体」、ゴムチューブ製のオブジェを背負っているし、近ごろは実際に四国八十八カ所巡りを行い、その記録映像を作品化して発表もしているし、一見パロディに見えるかもしれないが、おそらくそうではない)。
坂井が本格的な作品制作に取りくみ、パフォーマンスを行うようになった90年代後半とはその社会的状況も坂井個人を取り巻く環境も変わりつつあるのだとしても、「増大するエントロピー」をキーワードにして(「エントロピー」とはもともと熱力学の用語だが、広く応用され「無秩序/乱雑さ」「平均化」「情報量」などを意味する)社会の無秩序や不条理を提示しようとする動機はおそらく変わらない。しかし彼の顔に笑顔が増え、周囲を肯定する眼差しが染みこんできたのも確かなように見える(それは加齢のせいだと坂井は笑い飛ばすかもしれないが)。パフォーマンスをする坂井の姿を目にしたまち行く人たちがひそひそと後ろ指を差したり好奇の目を向けたりすることは今でもあるが、しかし笑顔で話しかけてくる人が増え、中にはオブジェを背負ってみたいとリクエストする人もいるとか。そういう人たちとおしゃべりしている坂井はじつに楽しそうだし、生き生きしている。目に見えぬ大きな敵とひとり闘うためのパフォーマンスから、他者と関係を生み現実をともに進む契機としてのパフォーマンスへと変化しつつあると言えば言いすぎだろうか。
坂井がそのように変わりつつあるとするなら、その理由をいろいろに想像することもできようが、ひとつには坂井のなかでゴムチューブ製のオブジェに対する心理的な一体感が強まってきたことが大きいように思う。もともとは自らの芸術表現のための材料/道具としてゴムチューブを選び取ったのだとしても、ながく活動を続けるうちに坂井がゴムチューブという素材に(まるで陶芸家が土という素材と邂逅し、土の特質から表現の形を導き出すことがあるように、あるいは素材そのものの力が表現を立ち上がらせることがあるように)愛着を重ねるようになったとしてもふしぎなことではないし、もともと骨董趣味を持つ坂井だからこそゴムチューブというモノとの豊かな関係を(決して愛玩の対象にはならないとしても)築きえたとも言える。しかしわたしにとってさらに重要に思えるのは、ゴムチューブが空洞である、空っぽであるという当たり前の事実である。
先に挙げた「増大するエントロピー」というキーワードは、社会における無秩序と坂井個人のなかの(中年から高年に差しかかったがゆえの)揺れ動く感情とを結びつけて自らの表現対象とするための坂井なりの視点を示しているが、同時にゴムチューブ製のオブジェの性質にも暗に言及している。つまりゴムチューブ製のオブジェは、坂井の手でいったん成形(完成)された後も空気が抜かれ再び膨らまされた時には輪郭をわずかだが違えている(そもそも膨らませたままでも空気は少しずつ抜けていく)。その不定形性とは言わないまでも輪郭の柔軟さを坂井はむしろ気に入っていて、空気とゴムとの組み合わせがもたらす作家自身も制御しきれないものに自らの表現をある程度任せるという鷹揚な態度は坂井の日常的な暮らしぶりにも見られるし、なにより「表現」というものを自己のなかに閉じこめず他者に開こうとする態度にも通じている。
柔軟な表皮と内容物を持たない空っぽのチューブ(管)。と、こう書いてふと気付くのがわたしたち人間の体との類似である。もちろん私たちの体内は坂井のゴムチューブ製のオブジェのように完全な空洞ではないし、骨も肉もつまっているわけだが、しかし口から肛門へとつながる管が真ん中を貫き、いくつもの内臓へと枝分かれし、血管がその隅々にまで張り巡らされている私たちの体は、見ようによってはゴムチューブ製のオブジェと同じ穴の狢(むじな)と言えないか(しかもともに穴がふさがれた状態を望んでいる!)。かたや空洞の諸器官によって生命を維持している人間と、かたや空洞で動くことも考えることも息することもできないオブジェ。ここには決定的な違いがあるが、しかし誰かが言った。「坂井さんのオブジェを背負った人はなぜかみんな表情にちょっと憂いを帯びる」と。この背負った本人にも意識できない「憂い」の正体とは何なのか。
わたしたちはたしかに自分の意志で動くことができるが、自分の意志だけでは動くことのできない人がいることを知っている。わたしたちの心臓はたしかに動き、息をして生きているが、心臓を機械につないで息をして生きて在る人がいることも知っている。わたしたちの頭は考え、想像することができるが、ある演劇人と哲学者とが「器官なき身体」という言葉によって身体そのものがほとばしるような衝動ときらめくような思索を生みだすのだと主張するようになっても久しい。わたしたちが坂井のゴムチューブ製のオブジェを背負った時に見せる憂いの表情とは、わたしたちから「生」だけを抜き取ったかのような脱け殻としての身体、ありえるかもしれないもうひとつのわたしたちの身体と触れ、交わり、一体となることで現れる身体的な思索の表徴なのではないだろうか。そしてこれを「生」を超えた存在-間のコミュニケーションの可能性として捉えることはできないだろうか。
筆の勢い(キータッチのリズム)に任せてちょっと遠くまで来てしまったかもしれない。ただそれこそ、坂井のパフォーマンスや制作がまったき「美術」であることの証左だろう。坂井自身はよく「美術の分かりやすさを利用して」と口にするが、それはより具体的であること、より生(活)に開かれていることを志向するのであり、坂井にとってもまた美術とは人を遠くにまで運び、わたしたちの想像力を遠くにまで飛ばしてくれるバネのようなものであろう。とはいえ少し話を戻さないとこのテキストも終わりがない。
つまりこういうことだ。元々はみずからの表現のための最適な材料/道具としてゴムチューブを選んだのだろうが、ながく付き合ううちにゴムチューブという素材により近しい感情や感覚を持つようになるばかりか、同じく空洞に貫かれた存在として支え支えられる関係(文字通り坂井はゴムチューブ製のオブジェを支えるわけだが)、生き生かされる関係へと踏み込んでいったのではないかと。
坂井はこの世界において無いことと在ることをそう易々とは切り分けることなどできないと知っている。無いから無いわけではないし、在るから在るわけでもない。「無いけど在る」「無いから在る」ことの切実さと大切さを腹に据えている。わたしたちの生と同じく、放射能も、宗教も、あるいは資本主義に掉さす今の世の中の流れも。そして希望も。