野見山暁治さんが、2023年6月22日に逝去されたと訃報が届きました。
当館とは長年お付き合いくださり、昨年12月から2月の間は「寄贈記念展 野見山暁治」展を開催しました。
102歳。生涯をかけて現役の画家を貫かれました。
野見山さんを追悼し、6月27日(火)から現在4階展示室で開催中のコレクション展「ひろがる日本画」展の会場内にて、先の寄贈記念展で最新作としてご紹介した《忘れた日》(2022年、油彩・画布、作家蔵)を1点、追加で特別展示します。
野見山暁治さん ありがとうございました。
*野見山氏の肖像は、2022年10月31日に福岡県糸島市で撮影されました。
*本投稿にかかわるすべての写真は、長野聡史撮影。
↓「寄贈記念展 野見山暁治」展の会場風景
「牛島智子 2重らせんはからまない」展会場パネルテキスト、記録集ジャケット裏の作品リストなどを掲載しています。11月中旬刊行の記録集とあわせてお楽しみください。
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前奏 先人たちに寄する
Prelude
牛島智子が生まれ育った八女は、画家・坂本繁二郎(1882-1969)が終生の住まいとした地です。全国的に名が知られた繁二郎を市内で目にすることもあったそうで、白いお髭のお爺さんは、ご近所のヒーローで、郷里の誇りだったようです。牛島が学生時代、そして大学卒業後に選んだ道は、いわゆる「現代美術」であり、ラディカルな実験が繰り広げられる領域ではありましたが、振り返ってみると自分の根っこは八女にあり、坂本繁二郎という存在は大きな意味をもっていたのだろうと牛島は言います。そして、同時に、坂本繁二郎にとどまらず、松田諦晶(1886-1961)や古賀春江(1895-1933)髙島野十郎(1890-1975)や井上三綱(1899-1981)、柳瀬正夢(1900-1945)たち、福岡に生きた画家たちへの思いを生き生きと言葉にします。
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ここから
From Here
のっそりとした牛の姿や合唱する蛙の声は、自分にとって郷里・八女の原風景なのだと牛島智子は語ります。同時に、「牛」は坂本繁二郎が得意としたモチーフでもあり、「食」という私たちと自然の接点、生命維持の出発点を喚起するモチーフでもあるとも言います。近年、牛島は牛をモチーフとした作品を集中的に制作していますが、そこには牛島にとっての八女の原風景、繁二郎への憧憬、「食」への思索、あるいは作家の名前にかけた言葉遊びが折り重なっています。このセクションでは、牛島の原型がつまった「牛」シリーズのほか、生活に密接に関わる「衣服」の作品、親から受け継いだ古い布地を継ぎあわせた作品や、展覧会の孵卵器である展示企画のための手製コンセプトブック、あるいはそのキャリアのスタート地点である80年代の作品などを展示しています。
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海と山と、ろうそくと
Where We live
弧を描く山がちな日本列島というフレームがあり、そこに山と海があって、内なる山の神としてのクマと、外なる海の神としてのクジラがあるーー自分が生きる地へのまなざしと、東日本大震災という出来事が折り重なって、展示「逆光のクマクジラ」(2011年、旧玉乃井旅館)が生まれました。そのまなざしは後にレットウシリーズや《クジラ尾》、版画のクマクジラシリーズなどへと展開していくこととなります。
私たちが生きる場所、そこに積み重なっていくものごとへのまなざしと思索は牛島の多くの作品の根幹にあるものです。90年代の終わりに帰郷したのち八女で市民活動などにも関わってきた経験もその基盤をなしているでしょう。牛島は同地で八女櫨研究会の立ち上げやろうそく作りワークショップの開催などにも取り組みつつ、木蝋や八女和紙、コンニャク糊などの素材を使い、その地の生に根差した活動を展開し続けています。その在り方を指して、牛島は、自分は「作物作家」であるとも言います。
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旅する青二才
The Traveling Greenhorn
八女に深く根差した活動を展開する牛島ですが、そのアーティストとしての自己形成過程においては、横浜における様々な実験と制作への取組み、多くのアーティストや評論家達と交流した経験が大きな役割を果たしています。また、トライアングルワークショップAIR(1993年)や灰塚アースワークプロジェクトAIR(1998年)、BankART AIR 2017(2017年)をはじめとしたアーティスト・イン・レジデンスへの参加や各地の展覧会の開催も見逃せません。牛島は客人として、旅し、遊行する作家でもあります。土地を渡るその歩みは作品として結実する一方で、牛島のなかで葛藤も引き起こしていたようです。特に福岡に拠点を再度移してからの数年は牛島にとって模索の時期でもありました。その模索の時期からの転換点、2008年に開催された「旅する青二才」のタイトルのもと、このセクションでは当時の作品やアーティスト・イン・レジデンスに関わる作品などを紹介します。
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巡り廻る、らせんのみちゆき
The Double Helix Is Not Entangled.
回顧はカイコで蚕。新作《MAYUDAMA》は、三角形から十二角形まで多角形の辺を増殖させていく牛島智子の年代記「KAIKO節」シリーズを逆巻きに立体化したものであり、内部ではこれまでの歩みがとけあい白色化しています。これまで私たちが見てきたものは、いわば《MAYUDAMA》の中身であり、外部と内部が接続する「クラインの壺」のような構造で牛島の歩みが循環しているのです。
時の流れを順に追って展開される「KAIKO節」、そして牛島特有の連想とおかしみで時間軸を乱しつつ会場に広がる諸作品、その牛島の歩みを辿る2つの異なるステップは、ときに先達たるアーティスト達の道行きと、ときに時代や社会と、向きあい共振しながら巡り廻ります。牛島は言います。「一対というのは調和した安定をもつ/それは生きていれば循環した強度に満ちている(twinkle)/しかし、死していれば、もつれ(twine)として頑固に鎮座する」※。牛島智子の2重らせんの歩みは、軽やかなステップを踏みつつ、きらめき(twinkle)続けます。
※「DOUBLE」(1991年、ヒルサイドギャラリー)展図録より
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《KAIKO3角節》、《KAIKO4角節》、《KAIKO5角節》…..壁面のガラスケースなかには、三角形から十二角形まで多角形の辺を増殖させていく牛島智子の年代記「KAIKO節」シリーズを軸に、牛島の思い出の品々から牛島の高校生時代や大学生時代の作品、あるいは年代記で示される時期に手がけた作品や調査対象であった蝋燭の素材まで、様々なものがおおむね時代を順におって展示されています。背景となっているのは、牛島がこれまで活動報告として発行してきた壁新聞です。
三角形の《KAIKO3角節》には、生まれた年の1958年から1959年、1960年の3年間が、続く四角形の《KAIKO4角節》には、1960年、1961年、1962年、1963年の4年間が、五角形の《KAIKO5角節》には、1963年、1964年、1965年、1966年、1967年の5年間が刻まれています。なぜ前後と一年を共有しているのか、その理由は、最後の部屋に展示されている《MAYUDAMA》を体感すると気づくことができるでしょう。多角形の辺を増やして展開するモチーフは牛島がしばしば用いるもので、八女市国武の牛島のアトリエの床にも大きく描かれています。通時的に、クロノロジカルに展開する壁面ガラスケースの内部も、牛島特有のリズムを刻みながら、時が進んでいっているのです。
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牛島智子
福岡県八女市生まれ、現在、同市を拠点に活動。1981年に九州産業大学卒業後、上京しBゼミ(横浜市)で学び、1980~90年代はヒルサイドギャラリー、スカイドアアートプレイス青山等で個展を重ねる。Triangle Artist Workshop AIR(1993年)、灰塚アースワークプロジェクトAIR(1999年)などにも参加。90年代末から活動拠点を福岡・八女に移し、身近な自然や資源に目を向けながら作品を制作し、精力的に発表を続ける。「旅する青二才」(ギャラリーアートリエ、2008年)、「とりのメウオのメそして永常さん」(パトリア日田、2021年) などの個展のほか、「第30回今日の作家展~洋上の宇宙・アジア太平洋の現代アート」(横浜市民ギャラリー、1995年)、「カラダに効くアート」(九州芸文館、2015年)、「食と現代美術vol.8 アートと食と街」(BankART KAIKO、2021年)などグループ展にも多数参加
1958年 福岡県八女市生まれ。
1981年 九州産業大学芸術学部美術学科卒業。
Bゼミスクール入所、83年から84年はAゼミに所属。
90年より不定期にBゼミ講師を務め、95年より演習ゼミ講師(~99年)。
1984年 Jクラス(Bゼミ内にあった子供造形教室)講師(~94年)。
1985年 横浜市や神奈川県の学校で非常勤講師を務める(~88年)。同時期に読画会参加。
1988年 「ワークショップ・モノレール大船駅」に参加(~91年)。
1992年 「小雀信号所スタジオ」を主宰(~95年)。
1997年 90年後半から関東と福岡で活動、1997年に住民票を八女に移す。
2001年 「八女デザイン会議」に参加。
水車、杉の葉線香、櫨、木蝋蝋燭、提灯、竹、楮和紙などを調べ市民講座などを手伝う(~2011年)。
2012年 「八女櫨研究会」を立ち上げる。
2021年 レジデンスプログラム「ねホリ はホリ drawing」を開始。
主な個展
1984年 「トオさんがラベラーうったよ」ギャラリー手、東京
1986年 「TOOOUー牛島智子展」ヒルサイドギャラリー、東京
1986年 「牛島智子TOOOU WORKS」 エリア・ドゥ・ギャラリー、福岡
1987 年 「TOOOU三角点」 コバヤシ画廊、東京 / アートスペースユア-ズ、伊東 / ギャラリー手、東京
1988年 「牛島智子展」ヒルサイドギャラリー、東京
1991年 「DOUBLE」ヒルサイドギャラリー、東京
1992年 「表面に働いて、いつもできるだけ小さい面積をとろうとする力」スカイドア・アートプレイス青山、東京
1993年 「多重ことば」 スカイドア・アートプレイス青山、東京
1996年 「POSITION」 スカイドア・アートプレイス青山、東京
2004年 「ひとりでうたうSinging Table」 福岡市美術館市民ギャラリー、福岡
2008年 「旅する青二才」ギャラリーアートリエ、福岡
2009年 「歩く動物」由布院アートホール、大分
2010年 「帽子じゃないよ、滑走路」九州日仏学館、福岡
2013年 「木蝋ろうそくのための燭台の展覧会」宇久画廊、福岡
2014年 「風が吹けば、ダイヤ五成る桶屋がモウ軽の編」九州芸文館、福岡
2014年 「腰曲げレットウ」art space tetora、福岡
2015年 「一週間だけろうそくや ケンビ」福岡県立美術館、福岡
2016年 「セルロース ウシジマトモコインスタレーション展」福岡アジア美術館交流ギャラリー、福岡
2017年 「かめのぞき」旧八女郡役所、福岡
2019年 「青玉ラムネ・カメラオブスキュラ」由布院駅アートホール、大分
2020年 「40年ドローイングと家婦」福岡市美術館市民ギャラリー、福岡
2021年 「とりのメ ウオのメ」福岡市美術館市民ギャラリー、福岡
2021年 「パトリアARTシリーズVol.11 とりのメウオのメそして永常さん」パトリア日田、大分
2021年 「炭素ダンスでエウレカ」EUREKA、福岡
2021年 「ミミズになる」Art House 88、福岡
2022年 「トリへのへんしん」旧八女郡役所、福岡
2022年 「コマまわしシロウ-蝋」旧八女郡役所、福岡
主なグループ展
1981年 「POST-MODERN」石橋美術館、福岡
1982年 「するめんた七月場所」神奈川県民ホールギャラリー、神奈川
1982年 「芸術機能展」福岡市美術館、福岡
1982年 「Bゼミ展」横浜市民ギャラリー、神奈川(以降、84年、83年のBゼミ展に参加)
1985年 「臨界芸術・85年の位相展」村松画廊、東京
1989年 「現代のヒミコたちー新しい造形を求めて」イムズ、福岡
1995年 「第30回今日の作家展~洋上の宇宙・アジア太平洋の現代アート」横浜市民ギャラリー、神奈川
1997年 「アート屋台プロトタイプ」ギャラリー萬、福岡
1998年 「ユートピアン・ガレージ」モダンアートバンク・ヴァルト、福岡
2000年 「外出中ミュージアム・シティ・福岡」キャナルシティ天神コア、ソラリア、福岡
2001年 「旧家でアート」 八女市白壁ギャラリー・堺屋、福岡
2009年 「かのごしまメイキング」能古島旧公民館、福岡
2011年 「第6回津屋崎現代美術展」旧玉乃井旅館、福岡(以降、13年、15年、16年の津屋崎現代美術展に参加)
2013年 「福岡現代美術クロニクル1970-2000」福岡県立美術館・福岡市美術館、福岡
2015年 「ちくごアートファーム計画 2015 カラダに効くアート」九州芸文館、福岡
2017年 「『赤玉ケイト』オムニバス盤 ウシジマトモコ編」福岡県立美術館彫刻展示室、福岡
2018年 「CHIKUGO ART POT 2018 スーパーローカルマーケット」九州芸文館、福岡
2020年 「スクラップ オブ KAWARADAKE」採銅所駅舎第二待合室、福岡
2021年 「アートと食と街 食と現代美術vol.8」BankART KAIKO、神奈川
主なアーティスト・イン・レジデンス等への参加
1993年 Triangle Artist Workshop(ニューヨーク州パイン・プレインズ、アメリカ合衆国)
1999年 灰塚アースワークプロジェクト (灰塚、広島県)
2001年 A Japanese Biennial Culture Exchange(クィーンズランド州、オーストラリア連邦)
2010年 BankART AIR Program(横浜、神奈川県)
2013年 Residency program at AIR/HMC, Session5, The Hungarian Multicultural Center(ブダペスト、ハンガリー)
2017年 BankART AIR 2017(横浜、神奈川県)
会場撮影:長野聡史
県美公式YouTubeにて、髙島野十郎の解説動画を続々とアップしています!
第1弾は、生前無名であった野十郎発見とその後の発掘のきっかけになった《すいれんの池》。
どうぞご覧ください!
第2弾以降はこちらからどうぞ↓↓
2021.7.13(火)-7.18(日) 10:00-18:00 1階彫刻展示室 入場無料
リニューアルが決まり、現状が大きく変わる須崎公園。その「森」をテーマとした展覧会を今夏開催しました。出品作家はedukenbiにも登場したオーギカナエさん。展覧会には、オーギカナエさんの作品だけではなく、6月に開催した森のワークショップ成果物も展示しました。
会場で一際目を引く《人と森<思い出地図>》は、オーギカナエさんが描いた大きな須崎公園の絵に、訪れた人が人型に切り抜かれた紙に須崎公園の思い出を書いて残していくという参加型の作品でした。様々な言葉をのせた色とりどりの人々のシルエット。言葉の一つ一つがあたたかな思いにあふれるもので、やさしく心にひびきます。展覧会「森で会いましょう」はオーギさんの作品と須崎公園や会場を訪れた人の思いが自由に軽やかに交差する、「公園」のように開かれた、パブリック(公共的)な空間にもなっていたように思われます。
子どもたちやオーギさんが描いた「木の肖像画」や、オーギさんが木々と公園が積み重ね一年一年を思いつつ描いたいくつもの円、ユーモラスなシルエットの色とりどりの紙に記された無数の公園をめぐる思い出…。さまざまな色彩や形、言葉のざわめく「森」の中で、須崎公園の過去と未来を思い、森の記憶を掘り起こし、木々の生と時間と向き合い、共有する時間がそこには生み出されていました。
1951年の開園以来、天神という街に寄り添い続けた須崎公園。福岡県立美術館も、また、ずっと須崎公園とともにあり、この生き生きと植物が繁茂する公園は多くのアートの現場ともなった。その須崎公園は福岡市の新しい拠点文化施設の建設とともに大きく姿を変えようとしている。
<ここ>に集い、刻まれ、錯綜する、さまざまな記憶と思い。オーギカナエは、柔らかに、真摯に、そして明るく軽やかに、それらを解きほぐし、紡ぎなおしていった。<人>、そして<森>の声に耳を傾けながら。オーギが生み出したのこの空間が、多声の中で一つの選択をしていく私たちにとって、須崎公園の変化に向き合うよすがとなることを願っている。「じゃあね」という言葉とともに。
藤本真帆(福岡県立美術館)
オーギカナエの〈森〉はいつも違った表情をみせる。子どもたちが遊ぶ、光差す柔らかな森(「森のたね」福岡市美術館キッズコーナー)、足を踏み入れることを少しためらうような影の濃い森(個展「topping of lifeオーギカナエの森へようこそ」2009年/ギャラリーアートリエ)。
今回の〈スザキの森〉はどうだろう。もうじき姿を変える公園のパブリックな要素を手がかりに、ワークショップや作品を通して森の記憶を共有し、人と自然との関係性を思い巡らすことができる開かれた森だ。じっくりと森が育んできた時の欠片が、ここで出会うかもしれない。ひと時の間、美術館に現れた森のざわめきを丁寧につむぎたい。
原田真紀(企画協力/インディペンデント・キュレーター)
会場写真:牛嶋木南
インタビュー「オーギカナエ アーティストの日々」
講師・出品作家 オーギカナエ(現代美術アーティスト)
https://www.ohgikanae-works.com/
1963年佐賀県唐津市生まれ。久留米市在住。光りや森といった自然や風景、生活から「かたち」をつむぎ出し、わたしたちが生きている時間や空間を考えるきっかけを、作品を通してつくっている。絵画やワークショップ、舞台美術のほか、移動式のイエロースマイルの中で行うお茶会など様々な表現に挑戦している。
企画展「1964-福岡県文化会館、誕生。」展は、2021年7月23日(金・祝)~9月2日(木)の開催を予定しておりました。しかし、新型コロナウイルス感染症の流行拡大により、8月6日を持ちまして、会期途中での閉幕となりました。
展覧会を楽しみにしていたという声を数多くいただき、また私共といたしましても、少しでも多くの方に展示をご覧いただきたいと思っておりました。
そこで、ギャラリートークを全4本の動画にして、youtubeにて公開することといたしました。スタッフが制作したつたない動画ですが、ぜひご覧いただけますと幸いです。
【第1回「東京オリンピック、開幕。」】
【第2回「1964年の美術、動く。」】
【第3回「福岡県文化会館、誕生。」】
【第4回「福岡の文化とともに、走る。」】
なお、展覧会の内容についてまとめた図録も販売いたしております。当館にてお買い求めいただくか、通信販売も行っておりますので、そちらもぜひご活用くださいませ。
図録通販→ https://fukuoka-kenbi.jp/publication/
〇日時 6月27日(日)13:30-15:30
〇場所 福岡県立美術館1階彫刻展示室ほか
〇講師 オーギカナエ
〇対象 子ども(5歳以上小学生以下)と保護者
〇参加無料 ※要予約(福岡県立美術館 092-715-3551)・先着順
梅雨も明けたのか、晴れに恵まれた6月27日の日曜日、オーギカナエさんによるワークショップ「森の肖像画」を開催しました。
「森の肖像画」は今夏から工事に入り、閉鎖させる予定の須崎公園をテーマとした<スザキの森のアートピクニック>の第二部です。7組の参加者は、最初にオーギさんのお話しを聞いた後、それぞれに好きな画材をもって公園に出かけて行きます。
オーギさんのお話しによると、「木と友だちになる」ことがポイントとのこと。
公園を散策し、これだと思った木の前にピクニックシートを広げ、みんな熱心に描いていました。どういう画材を使ったら面白いか、ほかにどういう描きかたもあるか、オーギさんに相談するシーンも。描いた後は、もう一度、彫刻展示室にみんなで集まって、友達になった木を紹介しました。
完成した作品には、それぞれにオーギさんが手作りの額縁をつけ、<スザキの森のアートピクニック>の第三部「森で会いましょう」で展示される予定です。お楽しみに。
COVID-19対策のため、人数を絞って、一階の彫刻展示室と屋外を会場としたワークショップでしたが、当館にとっても久しぶりの対面によるワークショップの開催。参加者のかたがたも、久しぶりのみんなと直接顔をあわせるワークショップを心の底から楽しんでいるようでした。
明日、6月22日からコレクション展Ⅱもいよいよオープンです。本日は「特集1 古川吉重の抽象」の最後のコーナーの展示の様子をご紹介いたします。
前回のまでの内容はこちらをご確認ください→ 「コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【1】」、「コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【2】」
古川吉重は、油絵などカンヴァスを支持体とする大ぶりの作品を中心に手がけましたが、同時に、ドローイングやリトグラフなどのペーパーワークにおいても魅力的な作品を数多く残しました。
特にグラファイトや鉛筆、オイルスティックなどを用いた黒のドローイングは、1970年代、古川がまだゴムシートとカンヴァスの作品に取り組んでいたころから始まり、色彩に回帰して以降も何百と描き続けられました。彼とってドローイングが画業の一つの柱であったことをうかがわせます。
一方で、リトグラフは1997年になってはじめて挑戦したようです。丁度、ワシントン・ナショナル空港の新ターミナル・ビルに設置する作品の制作者として選ばれた年でもあり、古川の円熟期の作品世界が紙の上に見事に展開されています。
「SOUND」は1997年に制作されたリトグラフ(石版画)のシリーズです。10点の作品が、それぞれ色を変え、形を変えて、リズミカルに展開されています。刷りは専門の工房によるものですが、複雑な地の上に浮かぶカラフルで表情豊かな幾何学的形態の「図」という古川の油彩画の特徴が巧みに版画のなかに落とし込まれています。
古川吉重《SOUND-1》1997年、当館蔵
古川吉重《SOUND-3》1997年、当館蔵
制作年の1997年はワシントン・ナショナル空港の新ターミナル・ビルがオープンした年でもあります。シーザー・ペリの設計によるこのビルには、フランク・ステラやソル・ルウィットをはじめとした30人の現代美術家の作品が組み込まれたのですが、そのなかの1人に古川も選ばれました。
古川は新ターミナル・ビルの作品に「自然による変奏曲」というタイトルを付けています。色と形が響き合う世界を、当時の古川が求めており、その結実が新ターミナル・ビルの作品であり、「SOUND」シリーズであったことがうかがえます。
いつもは150号大の油彩ばかりを描いているので、版画と言う異なった仕事には、不安と同時にチャレンジする面白さを経験する。ニューヨークで専門の工房に通い、いくつもの版に描いては削り、それが重なって色に輝きを増すのは新鮮な驚きであり、一つのイメージが何枚も出来上がって行くのは不思議な気がした。
「古川吉重リトグラフ展」(佐賀新聞文化センター、1997年)リーフレットより一部抜粋
さて、作品つくりは、例えば音楽家がシンフォニーを作曲して行く道程に似ているのではないだろうか。一つの発想の中で色彩が錯綜し、その空間に生まれたフォルムが互いに噛み合って行く。それぞれの色彩の持つ性格と有機的につながる形は、その置かれる位置、お大きさ、方向などによって表情を変える。そんな中で全体を操作しながら厚みのある画面を作っていきたい。
見上げる木には陽の光を通して、散りばめらえたような緑の葉が。海の中に目を凝らし、白雲の浮かぶ空を眺めては、果てしない深いものを感じる。石や金属で出来た都会の冷たい建築群の中でさえ、思いがけない線やスペースが潜んでいるのを発見する。
ーードローイングを、作品を作るようにやってみよう。……
「古川吉重のドローイング」(福岡市美術館常設展示室、1981年)リーフレットより一部抜粋
-ーだから、ドローイング作品のためのデッサン、下絵がたくさんあるわけ。……
ーーペインティングであれドローイングであれ僕は同じことをしている。……
ーーできたものはきれいだけど、できる課程に興味がある。……
ーー建築を見ていると、もちろん建築は面白い。でもできあがる過程を見ていると、もっとおもしろい。完成する前は、もっとおもしろいですよ。……
古川の絶筆とされる作品もまたペーパーワークでした。
2000年代半ばになると、古川の油彩の大作から「図」が消え、茫漠たる色彩が広がるようになります。2003年頃、古川は次のように記しています。「じっと見ているうちに何かが浮かんでくる。今まであったものが一つの空間の中に溶け込んでいく。激しい自己主張の多い中で消されそうになりながら、じっと動かぬ強さが欲しい」。絶筆の向こう側に広がる溶け合う世界に古川は何を見たのでしょうか。
物だけあっても、それを動かすハートがなくっちゃ、生きて動いてはこない。
そうとわかれば、すべてを忘れ、あんまりこせこせ考えすぎないで、やってみる事ではないか。
たとえ、家の中が火の車になっていても、そんな事なぞ人には見せず、出来ることなら、太っちょの葉巻のようなブリンプル、ニューヨークの空を飛ぶ小型飛行船のように、のんびり浮んでみたい。 そのうちには、いい事だって起ってくるさ。
あの、きりぎりすは鳴いているだけで、冬に向う何の仕度もしないと話に聞かされている。いいじゃないか、自分のやりたい事をやっているのだから。鳴けなくなってお金が残ったって、どうなるものじゃない。
ともあれ、このボロ船は、行先の事になると、何ともはっきりしないのだが、少しぐらいの嵐に出合っても、未だ座礁も沈没しないでいる。もともと、絵を描いたりしているのは、自分にないものを探そうとして、くり返している一つの精神的な作業のようなものではなかろうか。 人気のない暗いホームを荷物を満載した黒っぽい貨車の列が、重い音を立てて、走り去って行く。 街の道路を、キャタピラの地響きを立てながら、何台もの戦車が通りすぎて行く。二十代に聞いた音は、今、ニューヨークで耳にする工事現場の激しいドリルの音、長い鉄柱を打ち込む、圧さく空気、 ピストンの音と重って、体に伝ってくる事がある。
古川吉重「風まかせ(スケッチ風の自画像)」『裏窓ニューヨーク』(1986年)より一部抜粋
打ちっぱなしのンクリートや、部厚い鉄材などを触るように見、直立するように高く出来上ったビルの石やガラスの反応する街の中を歩いて、陽の光が、建物や道路の一部分にくっきりと深い影を 作ってしまうのを見て通る。
描いている時には、いつの間にか、これでもか、これでもかと、自分に向って叫んでいる事が多いように思う。何とかして強くありたいと言う事だけが念願のようでもある。
福岡でも緊急事態宣言が解除される見込みとなり、22日からコレクション展Ⅱもオープンできそうですが、この週末はまだ閉室中です。先日にひきつづき、コレクション展Ⅱの展示の様子をご紹介いたします。
前回の内容はこちらをご確認ください→ 「コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【1】」
1963年、渡米した古川吉重は、当初のヨーロッパ周遊の予定を変え、アメリカで生きていくことを決意します。予定外の生活は、レストランや土産物屋など職を転々とするなど、なかなか苦しかったようです。しかし、ニューヨークのアートシーンの新しい潮流に触れた古川は、そのような生活にあっても、これまでとがらりと作風を変えた作品に意欲的に取り組んでいきます。
この時期に古川が取り組んだものの一つに黒いゴムシートと下地が施されていない素のカンヴァスを貼りあわせた作品群があります。1967年の帰国展で展示されたそれらゴムシートの作品は日本で高く評価されました。
古川はそれらの作品を「西日本新聞」(1977年3月2日付)への寄稿で以下のように振り返っています。
「ともあれ私もいつの間にか、ニューヨークに住み着いて長くなってしまった。こんな状況の中で自分というものが少しでも変っていったのだろうか。街のビルが高ければ高いほど、その影は濃い。いつも通るダウンタウンの道は空きびんや屑が散らかっている。片すみで見かけたうす汚れたゴムは、そのありようも素材も忘れられないものがあった。ペイントをする必要もないまま、それをつなぎわせているのが、今の私の一連の作品である。」
しかし、1970年代末から古川は次第に油彩画への回帰を試みます。黒と白の油彩画から、次第に中間色が入り、そして色彩が再び戻ってきます。
古川吉重《無題》1980年、当館蔵
古川吉重《F-2》1986年、当館蔵
色彩、そして油彩画へと回帰した古川が生み出したのは、いくつもの色が塗り重ねられた「地」に、原色に近いはっきりとした色の幾何学的な形の「図」の組み合わせ。マチエール(質感)の対比もあって、カラフルな図形が色彩の中にぷかりと浮いているようにも見えます。地と図が対比された古川を代表する作風がこのとき成立したのです。
古川吉重《L10-2》1992年、当館蔵
古川吉重《L10-4》1991年、当館蔵
描いては消し、消しては塗り込めていくうちに、初めのうち頭の中にあった何かは、いつの間にか消え失せていく。外に出て道を歩きながら、繰り返し何度も確かめた筈のものが、手を動かす作業の中で消滅していくのは何故だろう。「イワシの頭も信心から」とい う言葉の通り、本来何も無いのではないか。描き、塗るというフィジカルな行為そのものが本質ではなかろ うか、と思う。ペインティングという言葉の ing ばか りが気にかかる。それでも作業の終わりに近づき、こ れでよいと止めた後、次の日をみて愕然とする事があ る。折角置いた形が、その位置が、嘘のように色褪せ る。消費した無駄な時間、加えて馬鹿にならない材料費――。
結局人は、いやぼくは、はっきりとしたゴールを見 いだせないまま、時を過ごしているにすぎないのであ ろうか、と思いながらも、平面の上に何度も色を塗っ ていく今の仕事は、長い年月の中で積み重ねられてい く、質や色の違った地層に似ていると感じることがあ る。傷ついた車体の修復塗装のように、何回も異なっ た色を重ねた後のグレイと、一色のグレイは同じでは ない、人の手によりながらも意識を離れて自然に出来 ていくのが望ましい。
ピザの生国をアジアだと思う人がいないように、ぼくの作品のルーツをイタリーだとは考えにくいだろう。 外国での滞在が長くなるにつれて、根無し草のように 浮遊しているだけかも知れないが、今も発生した所の 匂いは消えず、むしろそこに強い引力を感じながら、 いつまでも漂っているような気がするのだ。
古川吉重「ペインティング」『国立国際美術館月報』第15号(1993年)より一部抜粋
そして、1997年にはワシントン・ナショナル空港の新ターミナルビルのパブリックアートの制作者の1人として選ばれることになります。
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