2016年5月21日
【印象派展×コレクション展】講演会「日本近代洋画の流れ―印象派受容から独立美術協会まで」を大盛況の内に終了致しました。近代日本における印象派以後の洋画の流れを俯瞰的にとらえつつ、その表現の豊かな展開についてお話し致しましたが、ご参加できなかった方のために、講演会の要旨を掲載致します。皆様にとって本館の印象派展(3階)とコレクション展(4階)を合わせてお楽しみ頂く上での一助になれば幸いです。なお、★のついている作品は、3階印象派展と4階コレクション展でそれぞれ展示しております。
19世紀後半に生まれた印象派は、それまでのフランスのサロンに対抗するかたちで、新しい制作技法や表現様式、制作理念を掲げて斬新な作品を「印象派展」(1874年~)で発表しました。モネ(★《ヴェトゥイユを見下ろす、春》(1880年))やルノワール(★《セーヌ川の風景、リュエル》(1879年))らは戸外で光の表現を意識しながら、その時々の光の変化に応じた色の変化をカンヴァスに表すことに専念しました。この印象派を日本に最初にもたらしたのが黒田清輝(★《ルノワール「水浴の女」模写》(1910年))でした。フランス留学を終えた黒田は、燦々と太陽の光を浴びた女性を明るい穏健な色彩のもとに描き出し、それまでの明治美術会を中心とした旧派とは異なる近代日本における洋画の新時代を切り拓きました。黒田清輝と共に白馬会で活躍した岡田三郎助による《婦人像》(1909年★)にも印象派の影響が見て取れます。また、印象派から派生した新印象主義(★ポール・シニャック《サモワ、習作第8番(サモワのセーヌ川)》(1899年))では、光学理論や色彩理論に基づいて色調を分割する点描主義が提唱されましたが、その同時代的な影響を柳瀬正夢の《波止場のI氏》(★1922年)に如実に見て取ることができます。柳瀬は、丸で構成された動きのある点描で、太陽の光が逆行する様子を見事に捉えており、波止場に佇む男性が漂わせる感傷的な雰囲気を伝えています。
明治末には、高村光太郎の「緑色の太陽」(『スバル』明治43年)や夏目漱石の「藝術は自己の表現に始まり、自己の表現に終わる」(『東京朝日新聞』明治44年)といった言葉に代表されるように芸術における自己の表出、個性の発露が声高に叫ばれるようになります。一方で、西洋近代美術の紹介もより活発になり、明治43年に創刊された美術雑誌『白樺』では、ゴッホ(★《アルルのはね橋》(1888年))やセザンヌ(★《洋梨のある静物》(1885年))による作品を図版で精力的に紹介しました。『白樺』の提唱する商業主義にとらわれない孤高の天才としてのゴッホの崇高な人格や、セザンヌのリンゴから感じ取れる深い精神性に、多くの日本人洋画家は熱狂しました。本館と所縁のある高島野十郎もゴッホのひまわりから影響を受けた作品を描いています。
さらに大正末には、黒田ら白馬会が牽引してきた官展アカデミズムを乗り越えようする動きが現れ、日本的フォーブとも言われる原色を多用した明るいパレットで、対象の形状を大胆に崩しながら自由奔放な筆遣いを用いる洋画家が現れました。現在コレクション展で展示している児島善三郎はまさにそのような時代の申し子とも言えるような画家で、《サンルームの見える裸体》(★1931年)や《東風》(★1939年)にみられるように、時には荒々しく躍動感のある筆致でもって華美で装飾的な表現を追求しました。昭和5年に設立された独立美術家協会では西洋の最新の美術から学びつつも、その模倣にとどまらない表現、既存の日本洋画壇とは異なる独自の表現を探究するために様々な実験を繰り広げました。
印象派の名だたる巨匠の作品と合わせて、黒田清輝らによる印象派の受容から、児島善三郎ら独立美術協会会員による独創性豊かな画風へと繋がっていく日本近代美術の軌跡を、ぜひ印象派展・コレクション展にてご堪能頂ければ幸いでございます。