福岡県立美術館
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ホームケンビブログコレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【1】

コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【1】

緊急事態宣言の延長でコレクション展Ⅱのオープンは延期されることになりました。しかし、オープンの予定は6月22日(火)とまだまだ先。せっかくなので開幕までに会場風景や展示作品を少しずつご紹介したいと思います。

展覧会の内容についてはこちらのページもご覧ください。→コレクション展Ⅱ 特集1:古川吉重の抽象 特集2:ようこそedukenbiへ!

第一弾として会場風景をちょっとだけお見せします。

最初のコーナーは「特集1 古川吉重の抽象」の冒頭となります。古川が渡米する前に、日本で描いていた作品をご紹介していきます。

古川吉重は、1921年、福岡市大江町(現・中央区大手門)に生まれました。幼いころから絵を好んだ古川は、福岡県中学修猷館(現・県立修猷館高等学校)を卒業した後に、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学、南薫造教室で油彩画を学びました。そして、1943年に繰上卒業します。すべてが戦争に駆り立てられていた時代でした。

戦後、福岡に戻った古川は、教員生活の傍ら、独立美術協会展などに出品、入選を重ねます。1949年独立賞を受賞します。その後も読売アンデパンダン展への出品や個展、グループ展の開催など精力的に活動を続けて行きました。

古川吉重《基礎》1954年、当館蔵

実家が空襲で全焼したため、戦前の古川の作品はほとんど現存していません。戦後、独立美術協会の独立賞を受賞したころは、フォービスム(野獣派)やセザンヌの影響を感じさせる画風で人物画や風景画などを描いていたようです。
しかし、次第に、直線や幾何学的形象が目立つキュビスム(立体派)風の手法で、労働者や機械などをテーマとした絵画を描くようになります。「私はこれから始まる現代的なドラマを表現していきたい」と古川は記しています。《基礎》はこの時期の作品です。展評を読むと独立美術協会の新風として評価されていたことがうかがえます。そして、しばらくすると、キュビスム風の作品から、人や機械など具体的なモチーフが無くなり、主眼が色彩や構成、それが生みだすダイナミズムに移っていきます。

古川吉重《向進》1956年、当館蔵

「昨年まで描いていた働く人々の姿や、鉄骨の中から説明的なものがなくなり、だんだん人々の心理的 な状態や、機械類の力学的な躍動に変わって來ました。
この他に「結集」「滲透」と二点 描きましたが、この作品も思考や 感情の動きが一つの社会現象となってゆくのを想いながら組み立てま した。
人や機械の小さいながらも活カ に充ちた力が、いつの間にか寄り集まって来て円形を形づくり、目的に向って次第に距離を縮めています。共通の意志を持った生きもの達が抵抗を除きながら、何度失敗しても建設的な行動をつづけます。 人や機械のうごめきが、鮮やかな円筒形をした手の尖端となって、 左方画面外の中心に大きく円形をなして迫って行くように構成しました。
余りに生まじめな内容は、造形操作の上でも、性急で単調になるのではないかと、幾分不安に思っています。
(古川吉重「向進」『美術手帖』第118号、1956年)

 

1963年、古川吉重はニューヨークで開催された世界美術家会議にオブザーバーとして参加します。古川の当初の計画は、アメリカを経て、ヨーロッパを周遊しようというものでした。日本橋画廊(ニューヨーク)で個展を開き、その売り上げを元手にしようとしていたのですが、上手くいかず、残されたのは帰りの航空券のみ。そして、古川はその航空券を現金に変え、ニューヨークで生きていく決意をします。

レストランや土産物屋など職を転々とする生活は苦しかったようですが、ニューヨークのアートシーンの新しい潮流に触れた古川は、これまでとがらりと作風を変えた作品に意欲的に取り組んでいきます。

古川吉重《無題》1971年、当館蔵

 渡米後、古川は明快な色彩とシンプルな形態を組み合わせた絵画やカンヴァス(画布)に規則的に穴をあけた作品、あるいはカンヴァスを貼りあわせた作品など、様々な作風の作品をつぎつぎと手がけていきます。《無題》(1971年)はこの時期に作品で、明るい黄色と青に色が塗られたカンヴァスが貼りあわせられた作品です。真ん中の黒のドットは実はカンヴァスに穴があけられて表現されています

カンバスの上に、カンバスを切って貼りつける。アメリカの水性速乾性の糊は、使いやすくて強い。 買ってきた動力で、アクリル塗料のスプレーをかける。わずかな表面のでこぼこに、自然の濃淡が出来ていく。夢中になって作った絵を並べたのは、ウェストベスの画廊だった。
ある日、花房壽夫さんが連れてきたケンドウさんは、それを見て、自分の大学で展示する計画をしてくれたが、そのころの仕事は、とめどなく変わっていった。一年たって、ペース大学でショーをすることになった作品は、カンバスの布地だけをつなぎ合わせたものだった。彼はそれもまた、よく理解をしてくれた。
(古川吉重『裏窓ニューヨーク』(1986年)より一部抜粋)

古川が取り組んだものの一つに黒いゴムシートと下地が施されていない素のカンヴァスを貼りあわせた作品群があります。1967年の帰国展で展示されたそれらゴムシートの作品は日本で高く評価されました。

ゴムとカンヴァスの作品を残念ながら当館は所蔵しておらず、今回は展示しておりませんが、埼玉県立近代美術館さんのMOMASコレクション第4期(2017年)の「特集:古川吉重」会場風景記録で見ることができます。https://www.facebook.com/watch/?v=767777013398601

しかし、1970年代末から古川は次第に油彩画への回帰を試みます。黒と白の油彩画から、次第に中間色が入り、そして色彩が再び戻ってきます。

古川吉重《L10-4》1991年、当館蔵

続きは<コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【2】>で。しばらくお待ちください。

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