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児島善三郎が「キャンバスにこめた希望」(第1回) 苦難と成長の青年時代 絵を描く喜び

 

10月7日(土)から12月10日(日)まで、当館で開催している「生誕130年 児島善三郎展―キャンバスにこめた希望」をより深く楽しんでいただくために、「児島善三郎が「キャンバスにこめた希望」」と題する記事を全6回にわたってお届けします。


第1回 苦難と成長の青年時代―絵を描く喜び

児島善三郎は、明治26年(1893)に、福岡市中島町(現・福岡市博多区中洲中島町)の裕福な紙問屋の長男として生まれ、名門校である修猷館に学びました。長男として生まれたからには、家の後継ぎになることを周囲からは望まれながらも、幼いころから好きでたまらなかった「絵を描く」ということの強い思いに駆られ、反対を押し切るような形で上京します。

当時の日本の洋画壇は目まぐるしい転換期にありました。児島が最初に住んだ東京の駒込には、萬鉄五郎らも住んでおり、彼の強い影響を受けながら、一流の画家になることを夢見て修練に励みます。

児島善三郎「黒マントの自画像」大正3年、久留米市美術館蔵  *萬鉄五郎の影響が色濃い初期の自画像。自負心と不安が読み取れる。

 

児島善三郎「下板橋雪景」大正10年、個人蔵(福岡県立美術館寄託)  *遠近法を意識しながら、雪を温かみあふれる色彩で描く。

しかし、ここで児島は大きな挫折を経験します。東京美術学校の入学試験に失敗したのです。誰よりも強い思いで上京したはずが、なかなか思うようにならない現実がそこにはありました。さらには追い打ちをかけるように、そのような苦悩と肉体的な無理がたたってか、児島は胸を病み、郷里に戻って5年間もの療養生活を送ることを余儀なくされたのです。この2つの挫折が、20代の児島にとってどれほどもどかしく、苦しいことであったかは想像に難くありません。

しかし、児島はその苦しみをエネルギーに変え、決して悲観することはしませんでした。闘病生活についても「その間に「人間」を修養した。生命の尊さを知った。今も私が、来る日、来る日を惜しんで仕事をしているのはその時代の生命への愛着の実感から来ている」と前向きにとらえようとしました。

大正9年(1920)に健康を回復して再び上京したのちは、二科会で初入選、二科賞の受賞という快挙を遂げます。社会的な成功もさながら、児島はこのころの自らについて「渇したものが水を飲むように」「バッタが野を飛び回るように」、思う存分絵を描ける喜びをかみしめたと述べています。

児島善三郎「早春の野を走る列車(板橋風景)」大正10年ごろ、個人蔵   *絵筆をとることができる喜びにあふれ、夜昼構わず絵を描いていたことを伝える夜の麦畑の光景。

 

このように、若き児島は画家としては決して順調な歩み出しではなく、むしろ様々な葛藤や苦悩をたくさん引き受けていました。しかし、そのような経験が彼を強くしたのは間違いなく、それでもあきらめないという強い心で、画家として生きていく希望を取り戻したのです。(第2回に続く)

児島善三郎「青衣の母像」大正11年、個人蔵(福岡県立美術館寄託) *生涯連れ添った妻のはるを美しく丁寧な筆運びで描く。

 

 

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