2015年10月14日(水)
平成元年から開催し今年で27回目を迎えました。作品は福岡市及びその近郊の小学1年生から6年生の絵画で、四つ切またはB3の画用紙サイズです。ホワイト額に入れて展示しています。(会場 3階1号室 入場無料)
ヨーロピアンリゾートの色彩がおりなすコントラストと心地よい風を感じる作品です。イタリア人画家と日本人画家のコラボレーション。2人で約80点の洋画・水彩作品を展示しています。(会場 3階2号室 入場無料)
2015年10月6日(火)
N548展は九州産業大学芸術学部美術学科、酒井忠臣研究室の卒業展として1993年から展覧会を開催し、今回11回目を迎えました。今回の第11回展から酒井教授を中心とした卒業生展として開催します。 参加メンバーは酒井忠臣先生と酒井研究室の卒業生メンバーを中心に37名が出品しています。油彩、版画、CGなどの平面的なものから半立体のものまであり、まさに同じ窓の中の「個」を感じることができる内容です。(会場 3階1号室 入場無料)
デジタルカメラで撮った被写体を、画像処理ソフトPhotoshopで合成加工した作品を作成しています。追求するテーマは、人間の心の奥に潜む光と影の世界観をどう視覚化するかです。サイズは、A1~B2が中心です。(会場 3階2室 入場無料)
平成元年から絵画のサムホールサイズの公募展を始めました。審査員は洋画家、野見山暁治先生に依頼しています。応募条件は中学生以上で、第27回の今回も約400点を展示します。これまでの歴代最優秀・記念賞も展示しています。(会場 3階3室 入場無料)
今年で11回目になる九州造形短期大学公開講座受講生(田辺研究室受講生)の展覧会です。A1~A4サイズを展示しています。(会場 3階4室 入場無料)
教室開講6年目を向え、日々の練習の成果を作品にして第2回書作展を開催します。20代から90代までの老若男女22名の作品を展示しています。代表の砥板原心先生の作品のほか、会員全員による中国周から唐時代までの古典臨書、個々による創作をご覧いただけます。(会場 1階彫刻展示室 入場無料)
2015年10月5日(月)
去年の10月、すっきり晴れたある日曜日、目の前の須崎公園が今まで見たことのないようなピースフルでワンダフルな光景に包まれていました。NORTH TENJIN PICNICS。須崎公園を愛する人たちが「みんなにここでピクニックするようにのんびりとした時間を過ごしてほしい」との願いをもって集まって、自分たちの力だけで実現した1日限りのイベント。フードやドリンク、グッズ販売のブースが並ぶだけでなく、ワークショップがあったりミニライヴがあったりして、ごろごろ、ニコニコ、たくさんの人たちが思い思いに楽しんだ1日でした。
そのNORTH TENJIN PICNICSがなんと今年も開催されます。日時は10月25日の午前10時から午後4時30分。しかも今年は福岡ケンビも出店し、福岡・佐賀を中心に活動している人気アーティストレーベルHenry & Mathew との共同ワークショップ「スザキの森のミノムシたち」を実施。須崎公園で大きなミノムシをつくって、ケンビの前で小さなミノムシをつくります。あなただけのチャーミングなミノムシをつくりに来てください。
ケンビ館内ではちょうど「紙、やどる形」展を開催中。須崎公園とケンビとを行ったり来たりしながら、どうぞ1日楽しんでください。(竹口)
NORTH TENJIN PICNICS
→ https://www.facebook.com/northtenjinpicnics (Facebook)
→ http://www.tenjinpicnics.com/ (Website)
2015年9月21日(月)
八女和紙ワークショップ&バスツアー
紙でつなごう!ビジュツとコウゲイ ~まなびひろがる八女和紙ワールド~
「紙、やどる形」展に出品くださる横浜市在住のかご作家 関島寿子さんと、福岡県八女市在住の美術作家 牛島智子さんといっしょに過ごす2日間。ワークショップで紙を素材にした作品をつくり、バスツアーでは八女を訪れます。これまでのあなたの「紙」観がゆるやかな時間のなかで溶けてあらたに形づくられていく、またとない機会になるはずです。 *助成:美術館連絡協議会
*参加受付は終了しました
◆行程
10月17日(土)
10:00 福岡県立美術館(4階)に集合
10:15~11:00 「紙、やどる形」展を担当学芸員の解説とともに鑑賞
*展覧会鑑賞料はイベント参加費に含まれます。
11:00~17:00 ワークショップ「かたちを漉く」(講師:関島寿子さん+牛島智子さん)
*昼食は各自ご用意ください(館内に喫茶室もございます)。
17:00 解散
*17日に持参するもの
1)身の回りのネット状のもの(たとえば網戸のネット、野菜や果物が入っているネットなど、網の目の大きさに関わらず何でも構いません)、2)ネットの素材になりそうな糸や繊維(縄を解くなどしても構いません)、3)立体物(石、果物、野菜など何でも構いません)など、可能な範囲でお持ちください。
10月18日(日)
9:20 福岡県立美術館(1階)集合
9:30 バスで出発
10:30頃 JR羽犬塚駅経由
*福岡県立美術館ではなく羽犬塚駅からの乗下車もできます(ただしイベント参加料は変わりません)。
10:30頃~14:30 バスで八女和紙に関係する場所(2カ所程度)をツアー
*昼食は主催者でお弁当を用意します。アレルギー等の心配がある方はご一報のうえ、昼食は各自ご用意ください(イベント参加料は変わりません)。
14:30~16:00 牛島智子さんアトリエ訪問&ワークショップ「かたちを飾る」(講師:牛島智子さん+関島寿子さん)
*1日目のワークショップでつくった作品を持参して、完成させます。
16:00 バスで出発
17:20頃 福岡県立美術館到着、解散
◆定員と参加料
1)17日、18日とも参加:
定員10名/参加料4,000円(展覧会鑑賞料、2日目昼食代、保険料含む)
2)17日だけ参加:
定員10名/参加料3,000円(展覧会鑑賞料含む)
*18日だけの参加はできません。
*対象年齢はとくに設けていませんが、中学生以下の方は保護者同伴でお願いします。
*参加料は当日現金にてお支払いください。
◆お願い
記録集を制作するために、二日間ともカメラマンが記録写真を撮影します。ご理解の上、ご協力ください。なお希望者には記録集を差し上げます(2016年3月発行予定)。
◆問合せと参加申込み
福岡県立美術館(学芸課)までお電話 092-715-3551かE-Mail fpart-g[at]fukuoka-kenbi.jp (アドレスは[at]を@に置き換えてコピペしてください)にて、1)参加者氏名、2)ご連絡先、3)参加日、4)バスツアー参加の方は乗下車する場所(福岡県立美術館かJR羽犬塚のどちらか)、をお知らせください。原則先着順ですが、参加諾否のお返事まで少しお時間をちょうだいする場合もあります。
2015年9月14日(月)
福岡県立美術館開館30周年を記念して、平成27年12月4日(金)~平成28年1月31日(日)に「没後40年 髙島野十郎展」を開催いたします。この冬の開幕に先立ちまして、展覧会の公式ウェブサイトが公開されました。
野十郎展公式ウェブサイト
→ http://www.tnc.co.jp/takashimayajuro40/ (クリックすると移動します)
公式ウェブサイトでは、展覧会や関連イベント・コラボレーション企画などの情報をいち早くみなさまにご案内いたします。また、髙島野十郎の作品について展覧会担当学芸員がご紹介していく予定です。
開幕までの3ヶ月も、この当館ホームページとともにお楽しみいただければと思います。(横山)
2015年9月9日(水)
美術図書室より
特集1『県展』
第71回県展と過去の県展の図録を展示しています。
特集2『髙島野十郎』
没後40年髙島野十郎展に先駆けて、今までの展覧会の図録や関連図書を展示しています。
『おりがみコーナー』
図書室内のおりがみコーナーでは、秋のおりがみと紙を使った工作の図書を展示しています。
みなさまのお越しをお待ちしています!
2015年9月5日(土)
第71回福岡県美術展覧会(県展)の入選(入賞者)を発表します。
第71回福岡県美術展覧会の入賞・入選者を発表いたします。下の部門毎のリンクよりご覧ください。また、閲覧にはAdobe社のAdobe Readerが必要です。
2015年8月27日(木)
「あること」が終わって1ヶ月が経ちました。2週間という短い会期でしたがいろいろ考えることのできた展覧会でした。観に来てくださった方も、観に来たかったけど来れなかった方も、「そんな展覧会あるんだったら観に行きたかった!」と後から気付いてくださった方も、みなさんありがとうございました。
せっかくなので振り返ってみたいと思います。出品作家3人(坂井存、坂崎隆一、三輪恭子)それぞれについてのテキストをアップしていきます。まずは坂井存さんについてのテキスト。坂崎さんと三輪さんについてのテキストは、さていつになるやら…。
* * *
空っぽの身体と絶望のなかの希望 ― 坂井存の「あること」
竹口浩司
原発作業員に扮した坂井存(1948~ )がパフォーマンスを開始する直前にわたしに手渡したA4の紙には井上ひさしらがつくった《ひょっこりひょうたん島》の主題歌の歌詞が印刷されていた。パフォーマンスの締めくくりとしてこの歌を参加者全員で合唱したいというのだ。本人不在のまま始まったパフォーマンスの冒頭では坂井が各地の原発を訪ね歩いた記録映像とともに忌野清志郎の《原発音頭》がけたたましく流され、映像が一巡する約10分間の後に坂井と坂井の友人でもある彫刻家 新庄良博の「作業」が物々しく、しかし静かに動きだした。「スッとやって、パッと終わるのがいい、まるで作業のように」と坂井が言ったように、参加者の多くが坂井たちが登場したことすらも気付かなかったし、本展の出品作でもあった約2m四方の木製の箱(その側面には消費者金融のけばけばしいアクリル看板がベタベタと貼られていた)をグルグルと切り回し(もちろんキャスター付きではある)、その傍らに置かれていたもう一つの小箱の鍵を開けてバケツ二杯を取り出し、その中からバラバラになったマネキンの手を床に無造作に撒き散らしながら自分たちの怒りを叫ぶという一連のパフォーマンスをものの数分で終わらせた。その場で坂井から叫ぶように促された新庄が腹から絞り出した「俺たちの畑を返せ!」という声にも胸を打たれ、終了後「かっこよかったから、もうちょっと長くやればよかったのに」とわたしが勝手な感想を漏らしても坂井は「いや、こういうのは短い方がいいんだよ」と迷いなく潔かった。「作業」が「物語」をまとってしまう前に、「目の前の現実」が「特殊な表現/特別な芸術」へと昇華してしまう前に幕を引く。
絶望的な現実を示しながら、坂井はそれでも最後には希望をうたおうとする(以下この段落内の「 」は《ひょっこりひょうたん島》主題歌より引用)。「泣くのはいやだ、笑っちゃおう」と手を招く。「丸い地球の水平線に何かがきっと待っている」その「何か」はいつも楽しいこと、うれしいことばかりではなく、歌詞にあるように苦しいこと、悲しいこともあるだろうけれど、だからこそ明るく「進め」と唱えるそういう希望の使い方にこそ、これからの日々を生きぬくための術が隠されていると、わたしはそう思っている。そしてなにより、ひとりのぼくではなく「ぼくら」となって楽しさも悲しみも分有することができれば、すべての人にとって生きやすい世の中になるのではないかと考えてもいる。
坂井はながらく《重い荷物》を背負いつづけてきた。ゴムチューブでできた巨大なクワガタ虫のようなそれは、真っ黒でグロテスクに見えるが見ようによっては愛らしく、フェティッシュでもある。重さは約20kg。ただ背負うだけならそう苦にもならないが、それを背負って時には向い風を受けながら歩きつづけるとなると事情も変わる。
福岡に暮らす人であれば坂井が久留米在住だと聞けばピンと来るところもあるだろう。かつて久留米の繁栄をもたらしたゴム産業の嫡子(あるいは奇形児?)とでも呼べそうな象徴を坂井は背負っている。スーツにネクタイ姿でゴムチューブのオブジェを背負いまちを歩く姿は奇妙で滑稽だが、それを中年サラリーマンの悲哀や社会に対する怒りの表現と見ることもできようし、あるいはお遍路よろしく苦行に身を投じ苦難からの解脱を図っているのだと見ることもできようか(お遍路の巡礼者は「同行二人」と書かれた自らが弘法太子とともにあることを刻んだ笠を手にするが、坂井は文字通り「同行二体」、ゴムチューブ製のオブジェを背負っているし、近ごろは実際に四国八十八カ所巡りを行い、その記録映像を作品化して発表もしているし、一見パロディに見えるかもしれないが、おそらくそうではない)。
坂井が本格的な作品制作に取りくみ、パフォーマンスを行うようになった90年代後半とはその社会的状況も坂井個人を取り巻く環境も変わりつつあるのだとしても、「増大するエントロピー」をキーワードにして(「エントロピー」とはもともと熱力学の用語だが、広く応用され「無秩序/乱雑さ」「平均化」「情報量」などを意味する)社会の無秩序や不条理を提示しようとする動機はおそらく変わらない。しかし彼の顔に笑顔が増え、周囲を肯定する眼差しが染みこんできたのも確かなように見える(それは加齢のせいだと坂井は笑い飛ばすかもしれないが)。パフォーマンスをする坂井の姿を目にしたまち行く人たちがひそひそと後ろ指を差したり好奇の目を向けたりすることは今でもあるが、しかし笑顔で話しかけてくる人が増え、中にはオブジェを背負ってみたいとリクエストする人もいるとか。そういう人たちとおしゃべりしている坂井はじつに楽しそうだし、生き生きしている。目に見えぬ大きな敵とひとり闘うためのパフォーマンスから、他者と関係を生み現実をともに進む契機としてのパフォーマンスへと変化しつつあると言えば言いすぎだろうか。
坂井がそのように変わりつつあるとするなら、その理由をいろいろに想像することもできようが、ひとつには坂井のなかでゴムチューブ製のオブジェに対する心理的な一体感が強まってきたことが大きいように思う。もともとは自らの芸術表現のための材料/道具としてゴムチューブを選び取ったのだとしても、ながく活動を続けるうちに坂井がゴムチューブという素材に(まるで陶芸家が土という素材と邂逅し、土の特質から表現の形を導き出すことがあるように、あるいは素材そのものの力が表現を立ち上がらせることがあるように)愛着を重ねるようになったとしてもふしぎなことではないし、もともと骨董趣味を持つ坂井だからこそゴムチューブというモノとの豊かな関係を(決して愛玩の対象にはならないとしても)築きえたとも言える。しかしわたしにとってさらに重要に思えるのは、ゴムチューブが空洞である、空っぽであるという当たり前の事実である。
先に挙げた「増大するエントロピー」というキーワードは、社会における無秩序と坂井個人のなかの(中年から高年に差しかかったがゆえの)揺れ動く感情とを結びつけて自らの表現対象とするための坂井なりの視点を示しているが、同時にゴムチューブ製のオブジェの性質にも暗に言及している。つまりゴムチューブ製のオブジェは、坂井の手でいったん成形(完成)された後も空気が抜かれ再び膨らまされた時には輪郭をわずかだが違えている(そもそも膨らませたままでも空気は少しずつ抜けていく)。その不定形性とは言わないまでも輪郭の柔軟さを坂井はむしろ気に入っていて、空気とゴムとの組み合わせがもたらす作家自身も制御しきれないものに自らの表現をある程度任せるという鷹揚な態度は坂井の日常的な暮らしぶりにも見られるし、なにより「表現」というものを自己のなかに閉じこめず他者に開こうとする態度にも通じている。
柔軟な表皮と内容物を持たない空っぽのチューブ(管)。と、こう書いてふと気付くのがわたしたち人間の体との類似である。もちろん私たちの体内は坂井のゴムチューブ製のオブジェのように完全な空洞ではないし、骨も肉もつまっているわけだが、しかし口から肛門へとつながる管が真ん中を貫き、いくつもの内臓へと枝分かれし、血管がその隅々にまで張り巡らされている私たちの体は、見ようによってはゴムチューブ製のオブジェと同じ穴の狢(むじな)と言えないか(しかもともに穴がふさがれた状態を望んでいる!)。かたや空洞の諸器官によって生命を維持している人間と、かたや空洞で動くことも考えることも息することもできないオブジェ。ここには決定的な違いがあるが、しかし誰かが言った。「坂井さんのオブジェを背負った人はなぜかみんな表情にちょっと憂いを帯びる」と。この背負った本人にも意識できない「憂い」の正体とは何なのか。
わたしたちはたしかに自分の意志で動くことができるが、自分の意志だけでは動くことのできない人がいることを知っている。わたしたちの心臓はたしかに動き、息をして生きているが、心臓を機械につないで息をして生きて在る人がいることも知っている。わたしたちの頭は考え、想像することができるが、ある演劇人と哲学者とが「器官なき身体」という言葉によって身体そのものがほとばしるような衝動ときらめくような思索を生みだすのだと主張するようになっても久しい。わたしたちが坂井のゴムチューブ製のオブジェを背負った時に見せる憂いの表情とは、わたしたちから「生」だけを抜き取ったかのような脱け殻としての身体、ありえるかもしれないもうひとつのわたしたちの身体と触れ、交わり、一体となることで現れる身体的な思索の表徴なのではないだろうか。そしてこれを「生」を超えた存在-間のコミュニケーションの可能性として捉えることはできないだろうか。
筆の勢い(キータッチのリズム)に任せてちょっと遠くまで来てしまったかもしれない。ただそれこそ、坂井のパフォーマンスや制作がまったき「美術」であることの証左だろう。坂井自身はよく「美術の分かりやすさを利用して」と口にするが、それはより具体的であること、より生(活)に開かれていることを志向するのであり、坂井にとってもまた美術とは人を遠くにまで運び、わたしたちの想像力を遠くにまで飛ばしてくれるバネのようなものであろう。とはいえ少し話を戻さないとこのテキストも終わりがない。
つまりこういうことだ。元々はみずからの表現のための最適な材料/道具としてゴムチューブを選んだのだろうが、ながく付き合ううちにゴムチューブという素材により近しい感情や感覚を持つようになるばかりか、同じく空洞に貫かれた存在として支え支えられる関係(文字通り坂井はゴムチューブ製のオブジェを支えるわけだが)、生き生かされる関係へと踏み込んでいったのではないかと。
坂井はこの世界において無いことと在ることをそう易々とは切り分けることなどできないと知っている。無いから無いわけではないし、在るから在るわけでもない。「無いけど在る」「無いから在る」ことの切実さと大切さを腹に据えている。わたしたちの生と同じく、放射能も、宗教も、あるいは資本主義に掉さす今の世の中の流れも。そして希望も。