前期:2026年1月20日(火)~2月8日(日)
後期:2026年2月10日(火)~3月8日(日)
会期中一部展示替え
(祝休日の場合はその翌平日)
(入場は17:30まで)

みんなの画材―山本文房堂の的野さんは、野見山暁治さんとともにこの街を励まし続けた
本展覧会は、ひとりの額縁画材店主の取組みに着目する展覧会です。
福岡市内にある額縁画材店・山本文房堂の二代目店主・的野恭一(1930-2022)は、店を営む傍ら、人々が自然な形で美術に親しめるような枠組み作りに数多く取り組んでいました。本展では、画家・野見山暁治との親交から生まれた2つの取組みについてご紹介します。
ひとつは、東京藝術大学美術学部版画研究室 による版画グループ「アトリエC-126」の福岡における紹介に的野が取り組んでいたことです。アトリエC-126とは、藝大に版画研究室が開設されて間もない1968年に発足し、2009年まで活動を続けた版画グループです。版画研究室のその年に在籍する教授から講師までを基本とし、招待作家を迎えるなどメンバーは流動的でしたが、初期には、小磯良平、小野忠重、駒井哲郎、中林忠良、清塚紀子などが名を連ね、各人の作品発表とともに、エディション付きのカレンダーによる版画芸術の普及に研究室を挙げて取り組みました。「アトリエC-126版画展」は、みゆき画廊(東京・銀座)の年末の恒例展として知られていましたが、翌年初に国内数都市でも同展が開催されていました。福岡では、的野の山本文房堂画廊にて開催されました。同展に招待作家として参加した野見山から紹介を受けた的野は、彼らの趣旨に賛同し1973年から彼らが活動を終えるまでの37年間にわたり毎年自店画廊で開催しました。メンバーが小作品を寄せたエディション付きのカレンダーは人気を博し、この街にもゆっくりと東京の版画文化が浸みわたっていきました。
もうひとつは、「サムホール公募展」(主催:山本文房堂)です。1989年から2015年までの27年間という長きにわたり開催されました。それは、的野と野見山が想いをともにして二人三脚で作り上げた特別な公募展でした。出品条件はサムホール(15.8×22.7cm)の絵画サイズであること。小さなカンバスという気軽さに加え、入・落選問わず会場に展示されるアンデパンダン方式で展示されること、何より野見山が唯一の審査員を務め、参加者と会場を巡りながら丁寧に講評を行うことが大きな魅力となり、2015年までの27年間にわたり毎年続けられました。総出品はのべ8,953名、17,025点にのぼりました。
的野は、個人の趣味や目先の利益にとらわれるのではなく、美術に関わることならば惜しみなく社会に還元しました。自身は常に裏方に徹し、長期的な視点に立ち、人々が美術に親しめるような枠組みづくりに勤しみました。こうした的野の在り方は、画材を手に、作り手となる人々を常に輝かせることから、決して主張しすぎることなく絵画の魅力を一層引き出す額縁の存在を想起させます。まさにフレーマー(額装師)を生業とした的野の人生哲学が取組みにも表れているといえるでしょう。
本展では、的野の取組みに着目しながら、野見山の《絶筆》をはじめとする作品、東京藝術大学美術学部版画研究室アトリエC-126*を端緒にはじまった的野の版画コレクション、そしてサムホール公募展に関する作品・資料など約100作品を通して、的野と野見山の親交、2人のこの街の美術に対する想いについてご紹介します。
【特別出品】野見山暁治 シリーズ「産声をあげる神野山」(2004)
自身が描きたいと思うものを、思うように描くという信念を持っていた画家・野見山暁治。その創作意欲を突き動かした大分の鉱山風景。
本展序章では、特別出品として油彩のみならず、版画、水彩・素描によるシリーズ「産声をあげる神野山」(2004年、株式会社戸髙鉱業社蔵)をご紹介します。作品のほか、当時の現地スケッチ、画家自身の言葉、関係者や的野によって撮影された写真など制作にまつわる資料が残っていることから、本シリーズは野見山の制作プロセスや創作の源泉について考える上で貴重です。また画家・野見山と画材店主・的野の関係にも着目しご紹介します。
*カレンダーは、1973年から2009年までを展示替えにてご紹介します。(ただし、1975年、1976年は欠番。)