2023年11月13日
10月7日(土)から12月10日(日)まで、当館で開催している「生誕130年 児島善三郎展―キャンバスにこめた希望」をより深く楽しんでいただくために、「児島善三郎が「キャンバスにこめた希望」」と題する記事を全6回にわたってお届けします。
第4回 国分寺―風景との対話
児島善三郎は、その生涯において多くの転居をしていますが、すべての転居には積極的な意味があり、生活する場所が変わることが転機となって絵に新たな方向性が見いだされています。児島自身も、理想の土地で仕事をすれば仕事が飛躍し、日本一の絵描きになれると信じていたようです。
住み慣れた代々木の地を離れ、東京の郊外にある国分寺に転居したのは昭和11年(1936)のこと。しかし、それまでの都会生活とは異なる自然豊かな暮らしに、最初はなじめなかったといいます。しかし、国分寺は「大自然とともに呼吸し、そこから真実なる画人の生活を始めることが本当の芸術を生かす道になる」と考えた児島の理想の場所であっただけでなく、「生命に充ちた仕事がしたい」という希望をかなえてくれる場所でもありました。
いずれにしても、国分寺時代こそは、児島の生涯で最も充実した時期であり、華やかな色彩と線描からなる「児島様式」が開花しはじめた時代でした。
国分寺の地で児島は、季節の移ろいで変化する自然の表情を観察し、その風景と対話するかのように絵を描きました。そして、自然が見せる瞬間の美しさの奥に「永遠の相」を見いだし、それをキャンバスに刻み込んだのです。国分寺の自宅周辺に広がる松林や田園などの平凡な風景でも、ひとたび児島の手にかかればたちまち生命感を宿した絵になりました。
さて、留学後の児島の最大の目標は、「日本的油絵」を確立することでした。国分寺に移ったのちは風景に盛んに取り組むようになり、南画や琳派や桃山障壁画、そして水墨画などの日本の伝統様式を油彩画により再解釈しようと試みました。昭和10年(1935)以降から戦時中にかけては、日本の伝統や風土や感性に根差した日本独自の洋画を創造しようとする「新日本主義」を提唱し、戦争の足音も聞こえてくるなかで、日本そのものにも目を向ける契機にもなりました。
ともあれ国分寺での制作は、あくなき制作意欲をほしいままにしながら風景画の名作を次々と生み出した、児島にとっての黄金時代であっただけでなく、「日本的油絵」の創造という明確な目標を掲げて勇猛果敢に前進した、希望に満ちた時間であったと言えます。