川辺御楯(かわべみたて、1838~1905/天保9年~明治38年)は、筑後国山門郡柳河上町(現・柳川市)に柳川藩士の子として生まれ、久留米藩御用絵師三谷三雄に狩野派を学びますが、復古思想の影響を受け土佐派へ転向し、幕末期は国事に奔走します。明治元年(1868)からは太政官や伊勢神宮に出仕し、またこの頃土佐光文に土佐派を学びます。10年から画業に専念、15、17年の第1、2回内国絵画共進会での受賞を皮切りに、日本美術協会や東洋絵画会において活躍し、また皇室へ何度も献画を行うなど、近代大和絵界に重きをなしました。有職故実、歴史に対する深い知識に基づいた歴史画、物語絵を得意としました。
本図は後醍醐天皇の波乱の生涯の幕開けともいうべきシーンを、劇的に絵画化したものです。時は元弘元年(1331)8月24日夜半、所は比叡山を遥かに望む三条河原。六波羅探題の不穏な動きを察知し、後醍醐天皇は御所を脱出、侍臣たちとこの地に集結します。この後天皇はさらに笠置に落ち、天皇に変装した尹大納言(藤原師賢)は身代わりとなって比叡山に登り、鎌倉幕府軍の眼を欺きます。『太平記』にはほとんど記述のない場面にもかかわらず、百人を越す群衆を巧みに描き分けて緊迫感溢れる情景を創り出し、しかも中央部右方の輿に乗った白い装束の天皇へ、観る者の視線が次第に移行していくよう、絶妙な構図作りがなされています。
御楯はこの画題で、明治15年(1882)第1回内国絵画共進会で銅牌を受賞、明治天皇からも揮毫の下命を受け、さらに細部を練り直し6年後に献納した作が本図であると考えられます。御楯の大家としての出発点となったと同時に、近代大和絵の黎明を飾る傑作ともいうべき、高い質と魅力を本図は備えています。
(Y.U)