福岡県朝倉郡大福村(現・朝倉市)に生まれ、日展や示現会展で活躍した洋画家・大内田茂士は今年、生誕100年を迎えました。現在開催中のコレクション展(~2013年12月27日)では、没後にご遺族から寄贈いただいた数多くの作品から厳選し、各時期の代表作15点を小特集として紹介しているところです。
さて、大内田は43歳で初めてヨーロッパへ渡り、最新の抽象画に衝撃を受けました。以後、作風は激変、抽象と具象がせめぎあう風景画に長く取り組みましたが、その表現に一区切りを付けた1970年代終盤の65歳頃から、若き日にも傾倒した静物画の制作へと回帰します。仮面、鳥の剥製、兎や馬の張子など、お気に入りの雑多な事物を室内に自在に配し、また新聞紙や広告紙などのコラージュを交え、新たな世界を展開。例えば《仮面と卓上》では、中央のサボテンの存在感を高めるかのように、各モチーフは中心に向かって配置され、また黒と緑を基調とした色彩もやはりサボテンに呼応し、画面全体が気品ある調和を見せています。このような一連の静物画、室内画が高く評価され、1988年に日本芸術院賞恩賜賞を受賞、さらに2年後の芸術院会員への推挙へとつながり、まさに円熟の画風を完成させたのです。
画家として一つの頂点を極めた大内田は、しかし、新たな画境を求めました。毎朝の散歩で見慣れたはずの街と空、その空間が入り乱れた電線によってさまざまに区切られる情景に惹かれ、そこに愛用の題材のひとつ、カラスの剥製を配置して、晩年期のカラスの連作が生まれます。ただ画家本人は、カラスはあくまで「補助的な意味合いで登場させた」だけで、「面と線の分割のなかで鳥の動きの変化が楽し」いと述べたように、主題はあくまで黒い電線が分割する空間でした。このシリーズに取り組んで約4年、《落合の街角》ではアトリエ付近の何気ない風景を基に、絵具をはがしたり引っかいたりする独特の絵肌や電柱への広告紙のコラージュなど得意の技法を駆使し、現実世界をミニチュア化したかのように一見可愛げな、しかし道路の真っ赤な舗装、薄紫の空、そこに黒々と映えるカラスのシルエットなどが醸し出す、一種異様な空間を現出させています。本作を日展に出品した大内田は、残念ながら翌年早春に急逝。次はカラスをいかなる場面へ飛翔させ、どのような展開を構想していたのでしょうか。(魚里)
おおうちだ・しげし/1913-1994
朝倉中学を卒業後、浜哲雄、山喜多二郎太、髙島野十郎らに指導を受ける。24歳で上京し、新宿絵画研究所に学ぶ。黒を基調にした写実的な静物画や風景画で頭角を現すが、43歳でヨーロッパに渡り最新の抽象画に衝撃を受ける。以後、写実と抽象とを融合させた独自の画風を開拓した。