一見したところではあまりふしぎに思わないかもしれません。けれどしばらく見ているとそのふしぎさの虜になる、そんな絵。とくに小さい人(子ども)たちは大好きな絵です。
「空に浮かんでいる白いもの、これなにかな?」と尋ねると、いろんな答えが返ってきます。「雲」「お月さま」「星」「太陽」「なみだ」。そしてわたしが出合った過去最高の答えがこれ。「キューピーマヨネーズ!」。小さい人たちの想像力のなんと自由なこと。この絵が解き放つイメージのなんと豊かなこと。
描いた阿部金剛は岩手県盛岡市生まれ。慶應義塾大学に通っているなかで画家を志し、岡田三郎助に師事しました。1926年(大正15)には大学を中退して渡仏、アカデミー・ジュリアンなどに学びながら、藤田嗣治やキスリングに大きな影響を受けました。同時に彼は、当時からその運動が活発になりつつあったシュルレアリスムに関心を寄せていました。
タイトルになっているRienとは、「何もない」を意味するフランス語。そう言われれば、空にぽっかりと浮かんでいるのは何もない「空白」と考えることもできるかもしれませんが、しかし空白が浮かんでいるとはどういうことでしょう? あるいはよく見れば画面の最下部に書かれている「Rien」というタイトル。たしかに絵のこの部分にはいかなる像(イメージ)も描かれていません。ビルの姿は断ち切られ、像としては何もないところに「何もない」という文字があり、「KONGO ABE」(阿部金剛)という画家の署名があるという遊び。
空の色もどこか不穏な雰囲気を帯び、ビル群に無数に穿たれた穴のような窓の奥にも人気(ひとけ)はまったくありません。その人気のない世界に向かい合って、ただ一人絵を観ている「わたし」がいます。
そして「何もない」ことを描くという不可能を理知的で詩的な遊びとしてユニークに実現したこの絵には、もう一つのタネがあります。フランスから1927年(昭和2)に帰国した阿部金剛は、その2年後の1929年(昭和4)にこの絵を描きましたが、ちょうどその年、日本だけでなく世界中の多くの人たちの記憶に刻まれた出来事がありました。それが飛行船ツェッペリン号の北半球周遊。ツェッペリン号は途中東京上空をゆっくりと通過し、茨城県の霞ヶ浦に着陸しているのです。
当時この絵を目にした人たちは、「何もない」と宣言する絵の上に記憶の中の飛行船を見たにちがいありません。
なんとたくさんのことが描かれている絵なんでしょう。(竹口)
*阿部金剛はこの絵を描いた同年の第16回二科展に出品した《Rien》などが初入選し、東郷青児や古賀春江らとともに「新傾向」絵画の旗手として注目され始めました。絵画だけでなく詩作も行い、二科会を中心に活躍。その後1960年からアメリカ、メキシコに滞在し、1967年帰国、翌年他界しました。
*この作品は「とっとっと? きおく×キロク= 」展(10月4日~11月24日)に出品予定です。