今の季節、暑い夏にぴったりの作品ではないでしょうか。
青い空にもくもくと立ちのぼる白い雲、波も高い海岸で働く人たちと4頭の牛。仕事が終わるのを待っているのでしょうか、赤い傘を差した女性が一人立っています。雄大な自然と対決する労働の厳しさだけでなく、どこかのどかな暮らしの光景が絵を観る人の心をなごませてくれます。
絵を描いた向井潤吉(1901-1995)は戦後たくさんの民家を描き続けた画家として知られています。この作品を描いた1946年にはすでに民家を描き始めていました。急速に姿を消していく民家を採集・記録しておく目的もあったのでしょうが、彼自身「あまりに家のみに力点をおくと、なにか設計図みたいな窮屈さと味気ない説明になりやすいので、むしろ家を大切にしながらも、その家を取り囲む風土風景を主とするようになってきた」と語っているように、その眼差しは家と周囲とが一体となってかもす空気感やそこに暮らす人々の営みへと向けられていました。
横2mを超えるこの大きな作品にも、向井のその眼差しはすでに認められます。奥行きを強調してパノラマのように描かれた海はその壮大さを伝え、褐色の肌をあらわにしながら労働に勤しむ男たちは人間の逞しさを見せていますが、一人一人の姿はゆったりとリラックスしていて、なにより牛たちの顔と目のなんとかわいらしいことでしょう。人々の話し声や笑い声、口ずさむ歌までもが聞こえてきそうです。
じつはこの作品は昭和20年(1945)に結成された行動美術協会の第1回展(1946)に、《勤労讃二題の内》の一つとして出品されたものです。《よあけ》と題された作品と対をなし、健全な労働とぬくもりある日々の営みとが戦後の復興をもたらすのだと表現しているのかもしれません。向井の民衆への共感が感じられます。
京都に生まれた向井は大正3年(1914)から京都市立美術工芸学校に学びますが、大正5年(1916)には洋画の勉強を志して関西美術院に入学。大正9年(1920)第6回二科展に初入選し、以後も二科展に出品を重ねました。昭和2年(1927)から3年間滞欧し、昭和5年(1930)第17回二科展に滞欧作品を特別出品し、樗牛賞を受賞。昭和8年(1933)に世田谷にアトリエを構えますが、昭和12年(1937)陸軍報道班員として戦争記録画の制作に従事し、終戦まで数々の記録画を描きました。この作品にもそこで培った写実的な手法が活かされていると言えるでしょう。
しかしこの絵には、主題にも記録にも回収されない、ただ造形上の実験というか、向井の自由なあそびが込められているようにも見えるのです。水平線をよく見るとわずかに右下がりになっていることが分かりますが、それを不自然なく観るためには絵の正面に立つのではなく、ぐっと左に寄って右斜め方向に絵を観る必要があります。
するとどうでしょう。大きな四角い画面のなかから三角形と円形とがくっきりと浮かび上がってきます。波打ち際にくっきりと描かれた逆三角形(しかしこれは一体なにを描いているのでしょうか?雲の影としても不自然に思えます)と牛の歩みがつくった丸いわだちとが、正面から観ていた時には感じなかったほどのインパクトを持って目に飛び込んでくるのです。
絵画の美しさとはどこにあるのかを向井なりに考えた実験かもしれませんし、私の独りよがりな深読みかもしれません。しかしある日来館してくれた小学生たちとこの絵を右斜めに見た時に皆で「わっ」と声をあげた思い出は、絵を観ることの悦びとして私の心に刻まれたのです。
日々の暮らしのなかでささやかな悦びを見出し生きていくことは、あるいは向井自身も憧れ、絵に表現したかった変わらぬ心性だったかもしれません。
ぜひ一度この絵の前に、そして斜め前に、立ってみてください。(竹口)