鮮やかな赤を画面いっぱいに用いて、紅葉した櫨の木を描く本作は、福岡県久留米市出身の洋画家・松田諦晶(まつだていしょう、1886~1961)によるもの。赤をはじめ、黄や緑、青、茶などの短い色の線を重ねる、印象派を思わせるような作風で、野原にところせましと林立する櫨の木が堂々と描かれています。また動きのある線描によって、木がうねり、波打ち、さらには円を描くかのような生き生きした躍動感がもたらされています。
松田が生まれた久留米を含む筑後地区からは、青木繁や坂本繁二郎、古賀春江をはじめ、美術史に名を残す偉大な洋画家が多数輩出され、それは「筑後洋画の系譜」と呼ばれているほど。そして、大正2年に久留米において「来目(らいもく)洋画会」(後に「来目会」と改称)を結成し、展覧会や写生会を盛んに行うなど、筑後における洋画振興に一役かったのがまさに松田でした。
さらに筑後のシンボルともいえるのが、「わがくには 筑紫(つくし)の国や 白日別(しらひわけ) 母いますくに 櫨(はじ)多き国」という青木繁の歌にも詠まれているように、櫨の木のある風景でした。本作は、東京の上野で開催される二科展のために上京した際、音羽護国寺の境内で描かれたものです。しかし、東京にいながらにしてもなお、自らの郷里を想起させる櫨の木を描いた松田の心の中には、ふるさとへの強い愛着とともに、生まれ育った故郷のために生きようという決意がみなぎっていたのかもしれません。本作を描いた後、松田は二科展や太平洋画会展などの中央画壇での発表を辞し、久留米にとどまって後進の指導により一層心血を注ぐこととなります。それゆえ松田は、現在へも連なる筑後洋画の水脈を拡げ、次の世代へと繋いだ重要な存在であったと言えるのです。(高山)