2020年5月19日(火)
当館ホームページ上で「コレクション展Ⅰ特集: 野見山暁治の水彩・素描」展について順次公開してまいります。
*画像は、本展会場風景。(2020年3月撮影分)
*本展は、当初2020年3月14日から5月10日までの会期を予定していましたが、新型コロナウイルス感染症の感染とその拡大防止のための臨時休館により開幕の日を迎えぬまま閉幕しました。
*本展の会期を変更し、2020年8月8日から9月27日までの日程で開催する運びとなりました。
◆ コレクション展Ⅰ 特集:野見山暁治の水彩・素描 【 4 】
1-2 終戦、そして筑豊
1948年、野見山は再び上京します。しかし、生まれ故郷の福岡県飯塚の炭鉱の風景に心惹かれ、初期の代表的作品ともなる「廃坑」の連作に取り掛かります。
「青年になって東京へ移り、美校を卒業し、何年も離れていた自分の家に帰り、今まで気付かなかった人工的な炭鉱の風景に非常に逆に魅せられた。この冷たい人工的な風景が郷愁としてあるのか、作られた自然が性格的に好きなのか自分ではよく解らない。」
それまで興味を持つことがなかった風景が、セザンヌを知り、そして対象を幾何学の形でとらえるキュビスムに傾倒していく中で、郷里の炭鉱の風景は異なって見えたと言います。また、炭鉱の風景を描く際には、鉛筆が適した画材だったとも述べています。
上記2つ並んだ作品を見比べるとお分かりいただけるように、油彩画の下絵として描かれたものです。
油彩画に仕上げられた作品の中から、1951年第15回自由美術協会展で《廃坑(A)》のほか2作品が入賞を果たし初期の代表作となりました。日本での評価を得た野見山ですが、ついに念願のフランスへと渡ります。(岡部)
つづく 【 5 】
2020年5月18日(月)
当館ホームページ上で「コレクション展Ⅰ特集: 野見山暁治の水彩・素描」展について順次公開してまいります。
*画像は、本展会場風景。(2020年3月撮影分)
*本展は、当初2020年3月14日から5月10日までの会期を予定していましたが、新型コロナウイルス感染症の感染とその拡大防止のための臨時休館により開幕の日を迎えぬまま閉幕しました。
*本展の会期を変更し、2020年8月8日から9月27日までの日程で開催する運びとなりました。
◆ コレクション展Ⅰ 特集:野見山暁治の水彩・素描 【 3 】
1-1 終戦、そして筑豊
野見山は1938年に上京し、東京美術学校油画科予科(現・東京藝術大学)を経て、1939年同校本科へ進学し南薫造教室に入室します。南のほか、藤島武二、岡田三郎助、小林萬吾らの教授陣に学びながら、野見山は絵画を探求していきます。そのような充実した学生生活にも戦争の影が徐々に忍び寄るのです。1943年、戦争のために卒業が半年繰り上げられ、戦地に派遣されます。間もなく、学生時代に患った肺浸潤が再発したため戦地を離れ、福岡県内の傷痍軍人療養所にて終戦を迎えます。
「終戦までは、絵を描くにも海岸線には憲兵がいたり、高いところから描いちゃいけなかったり、いろんな制約があった。何でも自由に描いていい時代がやってきたが、別に嬉しくはなかった。」(北里晋『眼の人野見山暁治が語る』弦書房、2009年)と、のちに野見山は静かに回想しています。
《自画像》は終戦直後に描かれた貴重な一作です。野見山は、戦争に阻まれながらも「絵描きとして生きていきたい」という幼少期からの一途な思いを胸に抱いていました。この頃は、再び自由に絵筆をとることが出来た時期でもあります。本作に描かれた青年は、光がさす方向を背にして、暗がりへ、やわらかく純真な視線を投げかけています。その様子は、美術の流行にとらわれることなく自らの道を歩み続けてきた野見山の未来さえ予見させるかのようです。終戦後の空気の中、ナイーブにも確かな意志を秘めた青年期の画家の肖像がここに描かれています。(岡部)
つづく 【 4 】