福岡県立美術館
Fukuoka Prefectural Museum of Art
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【レポート】 オーギカナエ 森で会いましょう

福岡県立美術館コレクション展Ⅱ関連企画 <スザキの森のアートピクニック>

「オーギカナエ 森で会いましょう」展

2021.7.13(火)-7.18(日) 10:00-18:00 1階彫刻展示室 入場無料

「記憶に残したい須崎公園の森を通して<人と森>についてもう一度考える展覧会です」(オーギカナエ)

リニューアルが決まり、現状が大きく変わる須崎公園。その「森」をテーマとした展覧会を今夏開催しました。出品作家はedukenbiにも登場したオーギカナエさん。展覧会には、オーギカナエさんの作品だけではなく、6月に開催した森のワークショップ成果物も展示しました。

会場で一際目を引く《人と森<思い出地図>》は、オーギカナエさんが描いた大きな須崎公園の絵に、訪れた人が人型に切り抜かれた紙に須崎公園の思い出を書いて残していくという参加型の作品でした。様々な言葉をのせた色とりどりの人々のシルエット。言葉の一つ一つがあたたかな思いにあふれるもので、やさしく心にひびきます。展覧会「森で会いましょう」はオーギさんの作品と須崎公園や会場を訪れた人の思いが自由に軽やかに交差する、「公園」のように開かれた、パブリック(公共的)な空間にもなっていたように思われます。

子どもたちやオーギさんが描いた「木の肖像画」や、オーギさんが木々と公園が積み重ね一年一年を思いつつ描いたいくつもの円、ユーモラスなシルエットの色とりどりの紙に記された無数の公園をめぐる思い出…。さまざまな色彩や形、言葉のざわめく「森」の中で、須崎公園の過去と未来を思い、森の記憶を掘り起こし、木々の生と時間と向き合い、共有する時間がそこには生み出されていました。

1951年の開園以来、天神という街に寄り添い続けた須崎公園。福岡県立美術館も、また、ずっと須崎公園とともにあり、この生き生きと植物が繁茂する公園は多くのアートの現場ともなった。その須崎公園は福岡市の新しい拠点文化施設の建設とともに大きく姿を変えようとしている。

<ここ>に集い、刻まれ、錯綜する、さまざまな記憶と思い。オーギカナエは、柔らかに、真摯に、そして明るく軽やかに、それらを解きほぐし、紡ぎなおしていった。<人>、そして<森>の声に耳を傾けながら。オーギが生み出したのこの空間が、多声の中で一つの選択をしていく私たちにとって、須崎公園の変化に向き合うよすがとなることを願っている。「じゃあね」という言葉とともに。

藤本真帆(福岡県立美術館)

オーギカナエの〈森〉はいつも違った表情をみせる。子どもたちが遊ぶ、光差す柔らかな森(「森のたね」福岡市美術館キッズコーナー)、足を踏み入れることを少しためらうような影の濃い森(個展「topping of lifeオーギカナエの森へようこそ」2009年/ギャラリーアートリエ)。

今回の〈スザキの森〉はどうだろう。もうじき姿を変える公園のパブリックな要素を手がかりに、ワークショップや作品を通して森の記憶を共有し、人と自然との関係性を思い巡らすことができる開かれた森だ。じっくりと森が育んできた時の欠片が、ここで出会うかもしれない。ひと時の間、美術館に現れた森のざわめきを丁寧につむぎたい。

原田真紀(企画協力/インディペンデント・キュレーター)

会場写真:牛嶋木南

インタビュー「オーギカナエ アーティストの日々」

講師・出品作家 オーギカナエ(現代美術アーティスト)
https://www.ohgikanae-works.com/
1963年佐賀県唐津市生まれ。久留米市在住。光りや森といった自然や風景、生活から「かたち」をつむぎ出し、わたしたちが生きている時間や空間を考えるきっかけを、作品を通してつくっている。絵画やワークショップ、舞台美術のほか、移動式のイエロースマイルの中で行うお茶会など様々な表現に挑戦している。

「1964—福岡県文化会館、誕生。」展の紹介動画を作りました!

 企画展「1964-福岡県文化会館、誕生。」展は、2021年7月23日(金・祝)~9月2日(木)の開催を予定しておりました。しかし、新型コロナウイルス感染症の流行拡大により、8月6日を持ちまして、会期途中での閉幕となりました。

 展覧会を楽しみにしていたという声を数多くいただき、また私共といたしましても、少しでも多くの方に展示をご覧いただきたいと思っておりました。

 そこで、ギャラリートークを全4本の動画にして、youtubeにて公開することといたしました。スタッフが制作したつたない動画ですが、ぜひご覧いただけますと幸いです。

 

【第1回「東京オリンピック、開幕。」】

https://youtu.be/IWyMLbIdT8g

 

【第2回「1964年の美術、動く。」】

https://youtu.be/rmICSos0S4Q

 

【第3回「福岡県文化会館、誕生。」】

https://youtu.be/F4raE40EqWw

 

【第4回「福岡の文化とともに、走る。」】

https://youtu.be/0I6SOjRd_yk

 

なお、展覧会の内容についてまとめた図録も販売いたしております。当館にてお買い求めいただくか、通信販売も行っておりますので、そちらもぜひご活用くださいませ。

図録通販→ https://fukuoka-kenbi.jp/publication/

 

 

【コレクション展Ⅰ 宝物のような日常】展(終了)の会場風景をホームページ上で公開します 【2】

令和3年度コレクション展Ⅰ「宝物のような日常」展の記録として会場風景写真をホームページ上で公開します。(開催期間2021年3月20日(土)から5月11日(火)まで)

第2章 人、小さな声、大切な存在
正面の壁面左から水原房次郎《夏の夜 戦果をききいる少年達》1942、
古賀春江《窓》1927、石橋美三郎《子供(雪雄の像)》1929

第1章の様子は、こちら【1】

【コレクション展Ⅰ 宝物のような日常】展(終了)【3】に続きます。

【レポート】ワークショップ「森の肖像画」を開催しました!

オーギカナエ《人と森(じゃあね)》(2021年)より  ※今回のワークショップの記録動画などから構成される映像作品

〈スザキの森のアートピクニック〉 ワークショップ②「森の肖像画」

〇日時 6月27日(日)13:30-15:30
〇場所 福岡県立美術館1階彫刻展示室ほか
〇講師 オーギカナエ
〇対象 子ども(5歳以上小学生以下)と保護者
〇参加無料 ※要予約(福岡県立美術館 092-715-3551)・先着順

梅雨も明けたのか、晴れに恵まれた6月27日の日曜日、オーギカナエさんによるワークショップ「森の肖像画」を開催しました。

「森の肖像画」は今夏から工事に入り、閉鎖させる予定の須崎公園をテーマとした<スザキの森のアートピクニック>の第二部です。7組の参加者は、最初にオーギさんのお話しを聞いた後、それぞれに好きな画材をもって公園に出かけて行きます。

オーギさんのお話しによると、「木と友だちになる」ことがポイントとのこと。

公園を散策し、これだと思った木の前にピクニックシートを広げ、みんな熱心に描いていました。どういう画材を使ったら面白いか、ほかにどういう描きかたもあるか、オーギさんに相談するシーンも。描いた後は、もう一度、彫刻展示室にみんなで集まって、友達になった木を紹介しました。

完成した作品には、それぞれにオーギさんが手作りの額縁をつけ、<スザキの森のアートピクニック>の第三部「森で会いましょう」で展示される予定です。お楽しみに。

COVID-19対策のため、人数を絞って、一階の彫刻展示室と屋外を会場としたワークショップでしたが、当館にとっても久しぶりの対面によるワークショップの開催。参加者のかたがたも、久しぶりのみんなと直接顔をあわせるワークショップを心の底から楽しんでいるようでした。

コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【3】

明日、6月22日からコレクション展Ⅱもいよいよオープンです。本日は「特集1 古川吉重の抽象」の最後のコーナーの展示の様子をご紹介いたします。

前回のまでの内容はこちらをご確認ください→ 「コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【1】」「コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【2】」

古川吉重は、油絵などカンヴァスを支持体とする大ぶりの作品を中心に手がけましたが、同時に、ドローイングやリトグラフなどのペーパーワークにおいても魅力的な作品を数多く残しました。
特にグラファイトや鉛筆、オイルスティックなどを用いた黒のドローイングは、1970年代、古川がまだゴムシートとカンヴァスの作品に取り組んでいたころから始まり、色彩に回帰して以降も何百と描き続けられました。彼とってドローイングが画業の一つの柱であったことをうかがわせます。
一方で、リトグラフは1997年になってはじめて挑戦したようです。丁度、ワシントン・ナショナル空港の新ターミナル・ビルに設置する作品の制作者として選ばれた年でもあり、古川の円熟期の作品世界が紙の上に見事に展開されています。

「SOUND」は1997年に制作されたリトグラフ(石版画)のシリーズです。10点の作品が、それぞれ色を変え、形を変えて、リズミカルに展開されています。刷りは専門の工房によるものですが、複雑な地の上に浮かぶカラフルで表情豊かな幾何学的形態の「図」という古川の油彩画の特徴が巧みに版画のなかに落とし込まれています。

古川吉重《SOUND-1》1997年、当館蔵


古川吉重《SOUND-3》1997年、当館蔵

制作年の1997年はワシントン・ナショナル空港の新ターミナル・ビルがオープンした年でもあります。シーザー・ペリの設計によるこのビルには、フランク・ステラやソル・ルウィットをはじめとした30人の現代美術家の作品が組み込まれたのですが、そのなかの1人に古川も選ばれました。
古川は新ターミナル・ビルの作品に「自然による変奏曲」というタイトルを付けています。色と形が響き合う世界を、当時の古川が求めており、その結実が新ターミナル・ビルの作品であり、「SOUND」シリーズであったことがうかがえます。

いつもは150号大の油彩ばかりを描いているので、版画と言う異なった仕事には、不安と同時にチャレンジする面白さを経験する。ニューヨークで専門の工房に通い、いくつもの版に描いては削り、それが重なって色に輝きを増すのは新鮮な驚きであり、一つのイメージが何枚も出来上がって行くのは不思議な気がした。
さて、作品つくりは、例えば音楽家がシンフォニーを作曲して行く道程に似ているのではないだろうか。一つの発想の中で色彩が錯綜し、その空間に生まれたフォルムが互いに噛み合って行く。それぞれの色彩の持つ性格と有機的につながる形は、その置かれる位置、お大きさ、方向などによって表情を変える。そんな中で全体を操作しながら厚みのある画面を作っていきたい。
見上げる木には陽の光を通して、散りばめらえたような緑の葉が。海の中に目を凝らし、白雲の浮かぶ空を眺めては、果てしない深いものを感じる。石や金属で出来た都会の冷たい建築群の中でさえ、思いがけない線やスペースが潜んでいるのを発見する。

「古川吉重リトグラフ展」(佐賀新聞文化センター、1997年)リーフレットより一部抜粋
古川吉重《B-55》1980年、当館蔵

ーードローイングを、作品を作るようにやってみよう。……
-ーだから、ドローイング作品のためのデッサン、下絵がたくさんあるわけ。……
ーーペインティングであれドローイングであれ僕は同じことをしている。……
ーーできたものはきれいだけど、できる課程に興味がある。……
ーー建築を見ていると、もちろん建築は面白い。でもできあがる過程を見ていると、もっとおもしろい。完成する前は、もっとおもしろいですよ。……

「古川吉重のドローイング」(福岡市美術館常設展示室、1981年)リーフレットより一部抜粋

古川の絶筆とされる作品もまたペーパーワークでした。
2000年代半ばになると、古川の油彩の大作から「図」が消え、茫漠たる色彩が広がるようになります。2003年頃、古川は次のように記しています。「じっと見ているうちに何かが浮かんでくる。今まであったものが一つの空間の中に溶け込んでいく。激しい自己主張の多い中で消されそうになりながら、じっと動かぬ強さが欲しい」。絶筆の向こう側に広がる溶け合う世界に古川は何を見たのでしょうか。

物だけあっても、それを動かすハートがなくっちゃ、生きて動いてはこない。
そうとわかれば、すべてを忘れ、あんまりこせこせ考えすぎないで、やってみる事ではないか。
たとえ、家の中が火の車になっていても、そんな事なぞ人には見せず、出来ることなら、太っちょの葉巻のようなブリンプル、ニューヨークの空を飛ぶ小型飛行船のように、のんびり浮んでみたい。 そのうちには、いい事だって起ってくるさ。
あの、きりぎりすは鳴いているだけで、冬に向う何の仕度もしないと話に聞かされている。いいじゃないか、自分のやりたい事をやっているのだから。鳴けなくなってお金が残ったって、どうなるものじゃない。
ともあれ、このボロ船は、行先の事になると、何ともはっきりしないのだが、少しぐらいの嵐に出合っても、未だ座礁も沈没しないでいる。

もともと、絵を描いたりしているのは、自分にないものを探そうとして、くり返している一つの精神的な作業のようなものではなかろうか。 人気のない暗いホームを荷物を満載した黒っぽい貨車の列が、重い音を立てて、走り去って行く。 街の道路を、キャタピラの地響きを立てながら、何台もの戦車が通りすぎて行く。二十代に聞いた音は、今、ニューヨークで耳にする工事現場の激しいドリルの音、長い鉄柱を打ち込む、圧さく空気、 ピストンの音と重って、体に伝ってくる事がある。
打ちっぱなしのンクリートや、部厚い鉄材などを触るように見、直立するように高く出来上ったビルの石やガラスの反応する街の中を歩いて、陽の光が、建物や道路の一部分にくっきりと深い影を 作ってしまうのを見て通る。
描いている時には、いつの間にか、これでもか、これでもかと、自分に向って叫んでいる事が多いように思う。何とかして強くありたいと言う事だけが念願のようでもある。

古川吉重「風まかせ(スケッチ風の自画像)」『裏窓ニューヨーク』(1986年)より一部抜粋

コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【2】

福岡でも緊急事態宣言が解除される見込みとなり、22日からコレクション展Ⅱもオープンできそうですが、この週末はまだ閉室中です。先日にひきつづき、コレクション展Ⅱの展示の様子をご紹介いたします。

前回の内容はこちらをご確認ください→ 「コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【1】」

1963年、渡米した古川吉重は、当初のヨーロッパ周遊の予定を変え、アメリカで生きていくことを決意します。予定外の生活は、レストランや土産物屋など職を転々とするなど、なかなか苦しかったようです。しかし、ニューヨークのアートシーンの新しい潮流に触れた古川は、そのような生活にあっても、これまでとがらりと作風を変えた作品に意欲的に取り組んでいきます。
この時期に古川が取り組んだものの一つに黒いゴムシートと下地が施されていない素のカンヴァスを貼りあわせた作品群があります。1967年の帰国展で展示されたそれらゴムシートの作品は日本で高く評価されました。
古川はそれらの作品を「西日本新聞」(1977年3月2日付)への寄稿で以下のように振り返っています。

「ともあれ私もいつの間にか、ニューヨークに住み着いて長くなってしまった。こんな状況の中で自分というものが少しでも変っていったのだろうか。街のビルが高ければ高いほど、その影は濃い。いつも通るダウンタウンの道は空きびんや屑が散らかっている。片すみで見かけたうす汚れたゴムは、そのありようも素材も忘れられないものがあった。ペイントをする必要もないまま、それをつなぎわせているのが、今の私の一連の作品である。」

しかし、1970年代末から古川は次第に油彩画への回帰を試みます。黒と白の油彩画から、次第に中間色が入り、そして色彩が再び戻ってきます。

古川吉重《無題》1980年、当館蔵


古川吉重《F-2》1986年、当館蔵

色彩、そして油彩画へと回帰した古川が生み出したのは、いくつもの色が塗り重ねられた「地」に、原色に近いはっきりとした色の幾何学的な形の「図」の組み合わせ。マチエール(質感)の対比もあって、カラフルな図形が色彩の中にぷかりと浮いているようにも見えます。地と図が対比された古川を代表する作風がこのとき成立したのです。

古川吉重《L10-2》1992年、当館蔵


古川吉重《L10-4》1991年、当館蔵

古川吉重《L14-2》1993年、当館蔵

描いては消し、消しては塗り込めていくうちに、初めのうち頭の中にあった何かは、いつの間にか消え失せていく。外に出て道を歩きながら、繰り返し何度も確かめた筈のものが、手を動かす作業の中で消滅していくのは何故だろう。「イワシの頭も信心から」とい う言葉の通り、本来何も無いのではないか。描き、塗るというフィジカルな行為そのものが本質ではなかろ うか、と思う。ペインティングという言葉の ing ばか りが気にかかる。それでも作業の終わりに近づき、こ れでよいと止めた後、次の日をみて愕然とする事があ る。折角置いた形が、その位置が、嘘のように色褪せ る。消費した無駄な時間、加えて馬鹿にならない材料費――。 

結局人は、いやぼくは、はっきりとしたゴールを見 いだせないまま、時を過ごしているにすぎないのであ ろうか、と思いながらも、平面の上に何度も色を塗っ ていく今の仕事は、長い年月の中で積み重ねられてい く、質や色の違った地層に似ていると感じることがあ る。傷ついた車体の修復塗装のように、何回も異なっ た色を重ねた後のグレイと、一色のグレイは同じでは ない、人の手によりながらも意識を離れて自然に出来 ていくのが望ましい。 

ピザの生国をアジアだと思う人がいないように、ぼくの作品のルーツをイタリーだとは考えにくいだろう。 外国での滞在が長くなるにつれて、根無し草のように 浮遊しているだけかも知れないが、今も発生した所の 匂いは消えず、むしろそこに強い引力を感じながら、 いつまでも漂っているような気がするのだ。

古川吉重「ペインティング」『国立国際美術館月報』第15号(1993年)より一部抜粋

 

そして、1997年にはワシントン・ナショナル空港の新ターミナルビルのパブリックアートの制作者の1人として選ばれることになります。

続きは<コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【3】>で。しばらくお待ちください。

コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【1】

緊急事態宣言の延長でコレクション展Ⅱのオープンは延期されることになりました。しかし、オープンの予定は6月22日(火)とまだまだ先。せっかくなので開幕までに会場風景や展示作品を少しずつご紹介したいと思います。

展覧会の内容についてはこちらのページもご覧ください。→コレクション展Ⅱ 特集1:古川吉重の抽象 特集2:ようこそedukenbiへ!

第一弾として会場風景をちょっとだけお見せします。

最初のコーナーは「特集1 古川吉重の抽象」の冒頭となります。古川が渡米する前に、日本で描いていた作品をご紹介していきます。

古川吉重は、1921年、福岡市大江町(現・中央区大手門)に生まれました。幼いころから絵を好んだ古川は、福岡県中学修猷館(現・県立修猷館高等学校)を卒業した後に、東京美術学校(現・東京藝術大学)に入学、南薫造教室で油彩画を学びました。そして、1943年に繰上卒業します。すべてが戦争に駆り立てられていた時代でした。

戦後、福岡に戻った古川は、教員生活の傍ら、独立美術協会展などに出品、入選を重ねます。1949年独立賞を受賞します。その後も読売アンデパンダン展への出品や個展、グループ展の開催など精力的に活動を続けて行きました。

古川吉重《基礎》1954年、当館蔵

実家が空襲で全焼したため、戦前の古川の作品はほとんど現存していません。戦後、独立美術協会の独立賞を受賞したころは、フォービスム(野獣派)やセザンヌの影響を感じさせる画風で人物画や風景画などを描いていたようです。
しかし、次第に、直線や幾何学的形象が目立つキュビスム(立体派)風の手法で、労働者や機械などをテーマとした絵画を描くようになります。「私はこれから始まる現代的なドラマを表現していきたい」と古川は記しています。《基礎》はこの時期の作品です。展評を読むと独立美術協会の新風として評価されていたことがうかがえます。そして、しばらくすると、キュビスム風の作品から、人や機械など具体的なモチーフが無くなり、主眼が色彩や構成、それが生みだすダイナミズムに移っていきます。

古川吉重《向進》1956年、当館蔵

「昨年まで描いていた働く人々の姿や、鉄骨の中から説明的なものがなくなり、だんだん人々の心理的 な状態や、機械類の力学的な躍動に変わって來ました。
この他に「結集」「滲透」と二点 描きましたが、この作品も思考や 感情の動きが一つの社会現象となってゆくのを想いながら組み立てま した。
人や機械の小さいながらも活カ に充ちた力が、いつの間にか寄り集まって来て円形を形づくり、目的に向って次第に距離を縮めています。共通の意志を持った生きもの達が抵抗を除きながら、何度失敗しても建設的な行動をつづけます。 人や機械のうごめきが、鮮やかな円筒形をした手の尖端となって、 左方画面外の中心に大きく円形をなして迫って行くように構成しました。
余りに生まじめな内容は、造形操作の上でも、性急で単調になるのではないかと、幾分不安に思っています。
(古川吉重「向進」『美術手帖』第118号、1956年)

 

1963年、古川吉重はニューヨークで開催された世界美術家会議にオブザーバーとして参加します。古川の当初の計画は、アメリカを経て、ヨーロッパを周遊しようというものでした。日本橋画廊(ニューヨーク)で個展を開き、その売り上げを元手にしようとしていたのですが、上手くいかず、残されたのは帰りの航空券のみ。そして、古川はその航空券を現金に変え、ニューヨークで生きていく決意をします。

レストランや土産物屋など職を転々とする生活は苦しかったようですが、ニューヨークのアートシーンの新しい潮流に触れた古川は、これまでとがらりと作風を変えた作品に意欲的に取り組んでいきます。

古川吉重《無題》1971年、当館蔵

 渡米後、古川は明快な色彩とシンプルな形態を組み合わせた絵画やカンヴァス(画布)に規則的に穴をあけた作品、あるいはカンヴァスを貼りあわせた作品など、様々な作風の作品をつぎつぎと手がけていきます。《無題》(1971年)はこの時期に作品で、明るい黄色と青に色が塗られたカンヴァスが貼りあわせられた作品です。真ん中の黒のドットは実はカンヴァスに穴があけられて表現されています

カンバスの上に、カンバスを切って貼りつける。アメリカの水性速乾性の糊は、使いやすくて強い。 買ってきた動力で、アクリル塗料のスプレーをかける。わずかな表面のでこぼこに、自然の濃淡が出来ていく。夢中になって作った絵を並べたのは、ウェストベスの画廊だった。
ある日、花房壽夫さんが連れてきたケンドウさんは、それを見て、自分の大学で展示する計画をしてくれたが、そのころの仕事は、とめどなく変わっていった。一年たって、ペース大学でショーをすることになった作品は、カンバスの布地だけをつなぎ合わせたものだった。彼はそれもまた、よく理解をしてくれた。
(古川吉重『裏窓ニューヨーク』(1986年)より一部抜粋)

古川が取り組んだものの一つに黒いゴムシートと下地が施されていない素のカンヴァスを貼りあわせた作品群があります。1967年の帰国展で展示されたそれらゴムシートの作品は日本で高く評価されました。

ゴムとカンヴァスの作品を残念ながら当館は所蔵しておらず、今回は展示しておりませんが、埼玉県立近代美術館さんのMOMASコレクション第4期(2017年)の「特集:古川吉重」会場風景記録で見ることができます。https://www.facebook.com/watch/?v=767777013398601

しかし、1970年代末から古川は次第に油彩画への回帰を試みます。黒と白の油彩画から、次第に中間色が入り、そして色彩が再び戻ってきます。

古川吉重《L10-4》1991年、当館蔵

続きは<コレクション展Ⅱ「特集1 古川吉重の抽象」「特集2 ようこそedukenbiへ!」会場風景をご紹介します【2】>で。しばらくお待ちください。

「森のフロッタージュ」に参加してみませんか?

コレクション展Ⅱ関連イベント〈スザキの森のアートピクニック〉の「森のフロッタージュ」は期間中(6/1~6/27)はいつでも誰でも、ふらっと美術館に立ち寄って参加できます。

フロッタージュとは凹凸のあるものの上に紙を置いて、鉛筆などでこするように描くことで、ものの凹凸や形状を写し取る技法のことです。マックス・エルンストなどシュールレアリストの作家が好んだ技法としても知られています。 (参考:ポーラ美術館さんのフロッタージュの解説動画など)

須崎公園の葉っぱや木やベンチや道の凸凹を写し取ってみましょう。

「森のフロッタージュ」の参加のしかた

美術館の入り口にある森の木ポストには、参加者が自由にとっていけるように和紙とクレヨンが置いてあります。

和紙とクレヨンをとったら須崎公園を探索。

例えば木の根っこをフロッタージュ。

あるいは落ちていた葉っぱをフロッタージュ。

葉っぱは凸凹の少ないものの上にのせてこすり出しした方が葉っぱのかたちが出やすいです。

付箋に何をフロッタージュしたのか書いていただけるととてもうれしいです。※書かなくてもOK

最後に森の木ポストに投函。

投函していただいたフロッタージュは7月のオーギカナエさんの展覧会「森であいましょう」で作品の一部になります。なお、返却はできませんのでご了承ください。

そのほか詳しくはこちらもご参照ください。→〈スザキの森のアートピクニック〉

コレクション展Ⅱに関してはこちら。→福岡県立美術館コレクション展Ⅱ「特集1:古川吉重の抽象 」「特集2:ようこそedukenbiへ!」

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